前島密、郵便創業を建議する(前島密⑪)
前島密は、渋沢栄一たち改正掛で賛同され、大隈重信と伊藤博文にも賛同された郵便制度を実施したいと、明治3年5月19日、太政官へ建議しました。(下写真-国立国会図書館蔵)
その際の稟議の内容が、自叙伝に書かれています。
稟議書では、冒頭でまず「信書を快敏に往復せしむは、百般の景況声息を通じ、百貨平準の路を疎し、実に治国の重件、交際の要事に候」と、信書(手紙)の重要性を述べ、それが、従来は、民間の飛脚業者に委ねていたため、様々な問題があると述べた後、次のように官営の郵便制度を開設したいと述べています。自叙伝の文章は明治の文体で読みにくいので、私なりに現代調に変えて紹介します。
「追々、官営の郵便制度を設けて、国内どこでも信書の往復が自由にできるようにしたいと思います。ついては、今般、これを試みるために、まず東海道に沿って京都まで36時間、大阪まで39時間で届く郵便制度を開設し、公用私用にかかわらず、安い値段で継ぎ送り、上りと下りの便を創設したいと思います。その手続を非常に簡易なものにするため、書状賃銭切手(現在の切手のこと)を発行したいので別紙の件について御了解いただき、至急御評決していただいたうえで布告したいと考え、布告案ならびに規則書を添えてお願いいたします。」
そして、布告案のほか、新式郵便之仕法案、継立場駅々取扱規則案、各地時間賃銭表案、書状ヲ出ス人ノ心得案、郵便役所規則案などの規則書が添えられていました。
これらの添付書類のうち布告案については自叙伝に書かれています。これも現代文調に変えて紹介します。
「飛脚便をできるだけ簡便自在にすることは、公用は勿論、私用まで、社会の交際において必要なことであったが、これまで民間商人に任せておいてため、書状が届くについて、とかく日限が遅れ、その遅れの甚だしいものは、わずか数十里の距離においても十日余もかかり、ついには到達しない懸念もあった。特に至急便にては料金が高直にて、貧しい家の人たちはその事情を連絡することができかね、また、周囲の安否、品物の相場等も急ぎではわからない。遠国の僻地では、音信が全く通じないため、取留めのない風説に惑わされる者も少なくないように聞いていて、不便である。これにより、追々諸街道へあまねく飛脚の手続きを仕立て、遠近の人情を通じ、四方の模様もすぐに分り、上下とも一般・急便の書を自由に通じることができるようにするため、まず、試験的に、京都まで36時間、大阪まで39時間限の飛脚便を毎日、差立て、両地はもちろん、 東海道沿線の宿場の四~五里四方の村々も利用できるよう、この実施法が成立したなら、「書状差出人心得書」の通りすべきである。」
自叙伝の中で、こうした稟議書と布告案を紹介した後、前島密は、郵便制度創業について苦心したことを四つ述べています。
その一番目に郵便の名称を定めたことをあげています。それによると、前島密は郵便と命名しましたが、「飛脚便」と称すべしとの説が非常に有力であっため、「飛脚便」という名称は野卑であるし、時勢の変化は急であり、馬車や汽船・鉄道も計画されている時代に、依然として飛脚によって通信するのかと反論して斥けました。しかし、前島密がイギリスにわたっている間に、郵便の名称は変更されて、飛脚便となっていました。そこで、改めて郵便という名称を強く主張したため、郵便という名称は確固不動のものになったようです。
なお、人物叢書「前島密」によれば、「江戸時代の漢学者などは、飛脚便のことを「郵便」とも呼んだ。それを密が採用したわけである。時として“郵便”は密の造語として誤解している向きもあるが、決してそうではない。」と書かれています。
2点目は郵便切手の名称を決めて製造したことでした。切手の名称は商業上においてすでに用いられていて、世の中に人に知られていたので、切手という名称を使用したそうです。また、当時は切手の再利用を防ぐために消印を捺すことすら知らなかったため、液体を以て切手を濡す時は全面破潰して再利用できないように薄い紙を使用して印刷したとのことです。
なお、「郵便創業美談」によると、渋沢栄一がフランスの郵便切手を持っていたので、これを参考にして製造したそうです。
3点目として、東京大阪間における郵便物の発着時間を定めた事をあげています。
そして、4点目は、郵便料金を定めた事です。東海道各駅の距離が既に明確となっているため、その距離に応じて料金を定めたとしています。

