小栗上野介、「土蔵付きの売家の栄誉を残す」と語る(横須賀軍港ものがたり⑥)
小栗上野介は、横須賀製鉄所(造船所)の建設にあたって「土蔵付きの売家(うりや)の栄誉を残す」と語ったとされています。そこで、今日は、そのことについて書いてみます。

小栗上野介が、フランス公使ロッシュらとともに、造船所候補地を現地視察し、造船所建設地を横須賀と決定したのが元治元年(1864)11月26日です。
それから10日余り過ぎた12月9日、幕府はロッシュを老中諏訪忠誠(ただまさ)の屋敷に招いて、水野忠精・阿部正外(まさと)・諏訪忠誠の三人の老中が面談しています。
「新横須賀市史」によれば、この会談で、日本側はフランスとの協定を強固にするために使節の派遣を申し出て、フランス側もこれを了承しました。(これが柴田剛中を団長としする遣欧使節となります。)
また、ロッシュは、さきに造船の技術者として推薦したヴェルニーが近日中に上海の仕事を終えて来日する予定なので、ヴェルニーが到着したら幕府が現在保有している製鉄機械類をみたうえで、なお不足する分があればフランス派遣の使節に、フランスにおいて購入してもらうのがよいだろうと提案し、幕府側もこれに賛同しています。
さらに、老中たちが一番心配していて、中心的なテーマとなったのが造船所建設のための費用問題だったようです。
老中たちは、製鉄所の必要性はわかっているが、幕府としては財政状況が非常に厳しいと財政の困窮を訴えました。そして、幕府老中たちは、製鉄所建設費用の支払いに関しては、生糸のフランスへの直接輸出の道を期待したようですが、ロッシュも疑念を生むとして躊躇したようで、建設費用に関しては結論は出なかったようです。
横須賀に製鉄所(造船所)を建設するにあたっては膨大な費用がかることは、老中に限らず、勘定奉行として幕府財政を執り仕切っていた小栗上野介は当然ですが、栗本鋤雲もよく認識していました。
そこで、そのことを小栗上野介に尋ねた時に小栗上野介が語った話が「土蔵付きの売家の栄誉を残す」という有名な話です。
この話は、栗本鋤雲が、明治になってから書き残した「匏庵(ほうあん)十種」の中に書かれています。(「匏庵十種」は、国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができます。)
そこで、「匏庵十種」の中で語られていることを紹介します。原文は明治の文体で読みにくい文章ですので、読みにくい漢字をヒラガナに変えるなど現代文のように変えてあります。
栗本鋤雲は造船所建設の費用が巨費になるのを心配していました。
そのため、「予(よ:栗本鋤雲のこと)その巨費のいかんを憚(はばか)りたれば仔細商量あられよ今においてはなすもなさざるも我にあり既に託せし後はまたいかがすべからず」と小栗上野介に問いました。
それに対して、小栗上野介は笑って「経済は眞に所謂(いわゆる)遣り操り身上にてたとえこの事を起さざるもその財を移して他に供するが如きにあらず。故になかるべからざるのドック修船所を取立(とりたて)るとならばかえって他の冗費を節する口実を得るの益あり」と答えます。
その意味は次のようになると思います。
当時の幕府財政はいわゆる「遣り繰り身上」(あれこれ工夫して都合をつける苦しい財政状況)であるので、たとえ横須賀製鉄所(造船所)を建設しなくてもその予算を他に利用できる余裕などない。そのため、なくてはならないドック修船所を建設するとなればかえってほかの無駄遣いを節減させる口実とすることができる」と答えています。
それに続けて小栗上野介は次のように述べたと栗本鋤雲が書いています。
「いよいよ出来(「でき」または「しゅったい」:「完成すること」あるいは「事件が起こること」)の上は旗号(きごう)に熨斗(のし)を染出すもなお土藏付売家の栄誉を残すべし」
この中で「土蔵付売家の栄誉を残すべし」が非常に有名な部分で、いろいろなものに引用されています。
しかし、その有名な部分の直前の「旗号(きごう)に熨斗(のし)を染出す」という部分ですが、「旗号」は「旗印」という意味で、「熨斗」は「贈物」という意味ですが、全体ではどのような意味になるかよくわかりません。
そこで、「覚悟の人 小栗上野介忠順伝」(佐藤雅美著)と「小栗上野介」(星亮一著)でどのように訳されているか紹介しておきます。
☆角川文庫「覚悟の人 小栗上野介忠順伝」(佐藤雅美著)p259
「又愈々出来の上は(完成したら)旗号に熨斗を染出す(旗号に慰斗をつけて売り出す)も、猶ほ土蔵付ぎ売家の栄誉を残す可し」

☆成美堂出版「小栗上野介」(星亮一著)
「こんな暮府は長くはないぞ。この製鉄所が完成する頃は、もう幕府はないな。そっくり熨斗をつけて新しい持主に渡すか、土蔵付き売り家ならば栄誉を残せるというものさ」

これらを考慮すると、「いよいよ出来の上は旗号(きごう)に熨斗(のし)を染出すもなお土藏付売家の栄誉を残すべし」の意味は、「横須賀製鉄所(造船所)を完成させて、幕府が倒されて横須賀製鉄所(造船所)を討幕派に譲るような事態になっても、立派な財産があると誉められるであろう」という意味だと思われます。
栗本鋤雲は、その後に続けて括弧書きで、栗本鋤雲自身の感慨を次のように書いています。
「上野(小栗上野介のこと)がこの語は、一時の諧謔(かいぎゃく=冗談) にあらず。実に憐れむべきものあり。中心(心中)久しく、すでに時事の復(ま)た如何(いかん)ともする能(あた)わざるを知るといえども、我が仕ふる所(徳川幕府のこと)の存せん限りは、一日も政府の任を尽さざるべからざるに注意せし者にて、熟友(親友)、晤言(ごげん:会って語る)の間、常にこのロ気(口調)を離れざりき」
さらに、栗本鋤雲は、明治になってから、横須賀製鉄所(造船所)建設決定の当時の老中であった水野和泉守忠精(ただきよ)とたまたま巣鴨で出会った時、現在も功績として残っているのは横須賀製鉄所(造船所)だけであり、これは小栗上野介と栗本鋤雲のおかげであると言われたことについて次のように書いています。
「本月十七日予盆花を探(さぐ)り逍遙(しょうよう)して巣鴨の花戸(※花屋)内山長太郎の家を訪(と)うに久々にて料(はか)らず水野泉州(※水野和泉守忠精のこと)の老退後逍遙して到(いた)るあり。
共に十余年來の契濶(けいかつ※無沙汰の意味)を語り溪羹(けいこう:意味不明だが食べ物をさす言葉だと思われる)野蔌(やそく:野菜のこと)一酌の余り話(はなし)偶(たまた)まこの事に及ぶ。
君(水野忠精のこと)いう『予(水野忠精のこと)旧時に在り一事業の世に知らるるなし。唯其存じ留る者は独り横須賀造船所あるのみ。是全く卿(栗本鋤雲のこと)および上野の尽力に在るなり』と。一語亦以て其概(がい:おおよその意味)を見るべし。」
このエピソードの中の赤字部分は、「水野忠精は、『私が老中の時代にやった事業で世に知られている事業は一つもない。しかし、ただ一つだけ横須賀製鉄所(造船所)のことは世間の人々が知っている。これは小栗上野介と栗本鋤雲が尽力したからである」と語った。この一言でおおよそのことはわかるでしょう」という意味だと思います。
これまで書いてきた栗本鋤雲が書き残した「土蔵付きの売家の栄誉を残す」というエピソードは、いろいろな本に引用されています。まさに畏友栗本鋤雲により小栗上野介の功績が後世に残されたのです。