ヴェルニー、横須賀製鉄所(造船所)を造る(横須賀軍港ものがたり⑦)
今日は、軍港都市横須賀の礎となる横須賀製鉄所(造船所)を建設し、「ヴェルニー公園」にその名を遺すフランス人技師ヴェルニーについて紹介します。下写真はヴェルニー公園内のヴェルニーの胸像です。
ヴェルニーはフ、ランスの東南部アルデッシュ県オブナで生まれました。オブナは、マルセイユとリヨンのほぼ中間にあります。
ヴェルニーは、1856年パリの理工科大学校(エコール・ポリテクニック)に入学しました。理工科大学校は、技術者養成機関として数ある高等専門学校の頂点にある学校で、その出身者はエリート中のエリートと言われています。ヴェルニーは、さらに1858年からは海軍造船大学校で学んだ後、造船技師としてプレストの海軍工廠に勤務しました。
1862~1865年の間、東洋艦隊司令長官ジョレス提督の命令を受け、中国寧波(ニンポー)で造船所の建設から取り組み、18か月で四隻の砲艦を建造しました。この中国での任務を果たしたのち、フランス政府からシュバ丿エ・レジオンドヌール勲章が授与されています。下写真は、ヴェルニー記念館に掲示されていたヴェルニーの写真です。
ヴェルニーが寧波(ニンポー)で活躍していたころ、日本では、幕府が造船所建設の計画をフランスに任せることになりました。依頼されたフランス公使ロッシュが、ジョレス提督に相談した結果、製鉄所建設の技師としてヴェルニーを推薦することになりました。
ヴェルニーは、元治2年(1865)1月、来日しました。日本にやってきたとき、彼はまだ27歳の青年でした。
ヴェルニーは、造船所建設予定地の横須賀を確認して、ロッシュとともに、「製鉄所設立原案」を作成し幕府に提出しました。
それをもとに、元治2年1月29日付けで、幕府は造船所建設担当の老中水野忠精と若年寄の忠眦(ただます)の名前で、ロッシュに対して、ヴェルニーを首長(所長のこと)に据えて、4か年以内に製鉄所1ヶ所・修船所2ヶ所・造船所3ヶ所・武器庫・職人住宅などを建設する。その費用は年間60万ドル、四年で合計240万ドル支払うという約定書を渡しました。
その上で、ヴェルニーは、慶応2年2月、造船所建設に必要な機械・物品の購入やフランス人技術者を手配するため、フランスに一時帰国しました。この時、幕府は、外国奉行柴田日向守剛中を正使とする使節団をフランスに派遣することになりました。ヴェルニーは、フランスで、後にやってきた柴田日向守剛中に協力して機械類の購入等を購入しています。
一方、横須賀では、ヴェルニー不在の間も、山を削り海を埋め立てる製鉄所建設用の敷地の整地工事が始められました。
そして、慶応元年9月27日に、鍬入れ式が行われました。
フランスに帰国していたヴェルニーは、造船所建設に必要な機械を購入し、さらに有能な人材を雇入れ、慶応2年4月に、日本に戻りました。
そして、翌慶応2年(1866)10月には、フランスで雇用した技師・職工が来日し、横須賀製鉄所(造船所)の建設が本格的に始まりました。
横須賀製鉄所(造船所)製鉄所の建設は着実に進展し、第一船渠(ドック)はヴェルニーの日本帰着より少し前の慶応3年3月に着工しました。
慶応3年の王政復古の大号令により、幕府が倒されたため、建設工事が一時中断されましたが、明治政府が横須賀製鉄所(造船所)を引き継ぐこととなり、造船所建設工事は継続されることとなりました。
そして、第一船渠は、明治4年2月28日に完成し、同年4月7日から横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称されました。
明治6年には本格的に軍艦の建造が開始され、9月に「迅鯨(じんげい)」、11月「清輝(せいき)」が起工しました。
このように横須賀製鉄所(造船所)は順調に操業始めましたが、明治政府は、ヴェルニーが高給であったことなどから、明治8年11月15日にフランス公使に対しヴェルニーの解雇の申し入れを行い、フランス公使は、それを了承しました。
明治政府では、功績大きいヴェルニーを解雇するに際して、明治天皇への拝謁と勅語を賜ることになり、さらに勲章も授与されました。
そして、ヴェルニーは、12年間活躍した日本を去ることになり、明治9年(1876)3月13日、家族とともに横浜港からフランスに帰国しました。
その後は、フランスで過ごし、1908年5月2日に故郷オブナで亡くなりました。享年71歳でした。