記念艦「三笠」の歴史(横須賀軍港ものがたり⑩)
日露戦争当時の連合艦隊の旗艦であった戦艦「三笠」が横須賀で記念艦「三笠」として残されています。そこで今回は記念艦「三笠」についてご案内します。
「軍港巡り」の汐入桟橋からは徒歩20分、京浜急行横須賀中央駅からは徒歩15分です。下写真が記念艦「三笠」の全景です。右手が艦尾、左手が艦首です。
上記写真の中央には、東郷平八郎の銅像があります。それを拡大したのが下記写真です。
戦艦「三笠」が記念艦「三笠」として残された歴史をまず説明しようと思います。
戦艦「三笠」は、イギリスのヴィッカース造船所で、明治35年(1902)3月に建造されました。竣工後、直ちに横須賀に回航され、明治36年12月、連合艦隊の旗艦になりました。
明治37年2月から始まった日露戦争では、東郷平八郎司令長官が座乗する連合艦隊の旗艦として旅順口閉塞作戦や黄海海戦に参加しました。
そして、ロジェストヴェスキー中将を司令長官とするバルト海からはるばる遠征してきたバルチック艦隊を迎え撃ち、明治38年5月27・28日にわたった日本海海戦で激しい戦闘を繰り広げ、ロシア艦隊を完膚なきまでに撃破しました。
しかし、日露戦争終結直後の明治38年9月11日、「三笠」は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没するという悲劇に見舞われました。
その後、引き揚げられ修理され、第一艦隊の旗艦として現役に復帰したものの、ワシントン軍縮で主要艦の保有制限が課せられたことから、大正12年9月、艦齢が古くなった「三笠」は廃艦されることになりました。
しかし、日露戦争の勝利に貢献した戦艦「三笠」を永久に残すべきとの声が内外で高まり、記念艦として保存されることが決定されました。
「当初、東京芝浦に廻航する予定でしたが、横須賀港岸壁に係留中、 関東大震災で艦底に破孔が生じ浸水したため、急遽横須賀に置くことに変更され、大正14年6月、保存工事を終えた「三笠」は、満潮時を利用して曳船により岩場を掘削した現在の場所に引き入れられ、艦首を皇居に向けて固定されました。」(「記念艦『三笠』ホームページより」
「三笠」の艦首には菊の御紋章が付けられていて、艦首は確かに東京方面を向いていました。(下写真)
昭和20年8月、日本が太平洋戦争に敗れると、日本に進駐してきた連合国軍の中でソ連は記念艦「三笠」を解体するよう強硬に要求したそうです。こうしたソ連の解体要求を考慮して米海軍司令部は「三笠」の艦橋、大砲、煙突、マストなど上甲板構造物を撤去したうえで保存使用することを許可しました。
しかし、横須賀市から「三笠」と周辺地の使用を委託された民間企業は、上甲板構造物を撤去した跡に、水族館、ダンスホールなどを設け、「三笠」を遊興施設に変えただけでなく、「三笠」の近くに保管されていた大砲やマストなどを売却してしまったそうです。
こうした「三笠」の惨状を観たイギリス人がジャパンタイムスに投稿したことをきっかけに、昭和33年11月、三笠保存会(会長渋沢敬三)が再び結成され、「三笠」復元運動が始まり、国内外から1億6千万円もの募金が集まりました。
この募金、アメリカ海軍のニミッツ元帥の協力、そして政府の支援により復元工事が実施され、昭和36年、「三笠」は元の姿に復元されました。
下写真は、記念艦「三笠」の入り口です。料金は大人600円です。