坂本龍馬の妻「おりょうさん」の墓(横須賀軍港ものがたり⑭)
坂本龍馬の妻「おりょうさん」のお墓が横須賀市内のお寺にあります。そこで、軍港めぐりに併せてお参りしてきましたので、今日は、その「おりょうさん」のお墓のお話をします。
「おりょうさん」のお墓は、横須賀市内の信楽寺(しんぎょうじ)にあります。信楽寺は京浜急行「京急大津駅」から徒歩5分のところにあります。下写真は信楽寺の本堂です。
司馬遼太郎も「おりょうさん」のお墓にお参りをしたようで、「街道をゆく 『三浦半島記』」の「久里浜の衝撃」の中に「おりょうさん」のお墓の話が次のように書かれています。
「横須賀の古い市街地を歩いている。
道がせまく、家々の粒がそろわなくて、一見、子供が遊びちらしたあとの部屋のようにみえる。しかし丹念に見ると、不意に古い一郭が残っていたりする。
そういう町並の極みに、山を背負って、浄土宗の寺がある。
山門が、すでに高い。その山門(のぼる石段の下につまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背に ーいわば路傍にはみだしー 墓が一基ある。路傍の墓である。
坂本竜馬(1835~67)という、生涯が32年しかなかった人の妻の墓である。
妻の名は、りょうと言い、竜あるいは竜子と表記した。」
この後、池田屋で坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に囲まれた際に、おりょうが裸で急を知らせたこと、坂本龍馬が、薩長同盟締結に尽力したことや日露戦争の際に皇后陛下の夢枕にたったことなどが書かれていて、最後に次のように締めくくっています。
「りようの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りつばなものである。碑面に、
『贈正四位阪本竜馬之妻龍子之墓』
とある。りようの明治後の戸籍名である"西村ツル“」は、無視されているのが、おもしろい。」
司馬遼太郎が信楽寺(しんぎょうじ)を訪ねた時には、「おりょうさん」のお墓は、山門の下にあったようです。下写真が山門です。写真の右端に信楽寺とおりょうさんについての説明板がありましたが、その近辺にあったのでしょうか。
下写真は説明板の拡大写真です。
現在のおりょうさんのお墓は、司馬遼太郎が訪ねた山門の下から本堂の左脇に移動されています。下写真が本堂脇から撮ったおりょうさんのお墓です。
おりょうさんのお墓は、高さが2メートルを超えるほどの立派なお墓で。表には、司馬遼太郎が書いている通り「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれています。
お墓の脇には「横須賀風物百選 坂本龍子の墓」と題した説明板が設置されています。(下写真)
その説明板には次のように書かれています。
「江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、龍馬の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は京都の町医者 楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保11年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永3年(1850)6月6日となっています。
名は「りょう」また「とも」と呼ばれ伏見の「寺田屋」にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが、確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応3年(1867)11月15日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、33歳の若さで斬殺されました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが長続きしませんでした。その後、京都・大坂・東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは、定説がありません。
ただ、はっきりしていることは、明治8年7月2日、三浦郡豊島村深田222番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治39年1月15日の午後11時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。
龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で明治39年10月20日にささやかに営まれました。また遺骨は、当時の信楽寺住職新原了雄師のご好意により、この地に葬られたとのことです。」
おりょうさんは、晩年は、横須賀の西村松兵衛と再婚し、横須賀で暮らしたようです。横須賀には、おりょうさんの住居跡も残されていますし、信楽寺では、毎年、「おりょうさんまつり」も開催されています。
今回は、時間がないのでおりょうさんの住居を廻ることはできませんでしたが、京急大津駅前に「大津おりょうさん公園」がありましたので、信楽寺に行く途中寄ってみました。(下写真)
公園脇の歩道に「龍馬とおりょうの恋文ポスト」が設置されていました。(下写真)
ポストの脇の説明板によれば、ポストの上の坂本龍馬とおりょうさんのブロンズ像は湘南学院高等学校の生徒の皆さんがクラウドファンディングによる募金により造ったものだそうです。
下地図の中央が信楽寺です。