横浜製鉄所(横須賀軍港ものがたり⑯)
「横須賀軍港ものがたり」の最後に「横浜製鉄所」についてお話します。
JR石川町駅の中華街口(北口)を出てほんの少し歩くと目の前に「横浜製鉄所跡」と書かれた説明板が見えてきます。 下写真は石川町駅北口方向から撮った写真です。
横浜市教育委員会が立てた説明板には次のように書かれています。
「横浜製鉄所は、幕府がフランスと提携し、幹線の修理と洋式工業の伝習を目的として設置した官営工場である。慶應元年(1865)二月に着工、九月下旬には開業し、艦船修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めた、首長(初代ドロール、のちゴートラン、ルッサンら)以下多くのフランス人技師・職工が建設や操業に携わり、我が国における近代的産業技術の導入、発展に大きな役割を果たした。慶應四年(1868)閏四月、横浜製鉄所は横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれた。管轄は神奈川裁判所、さらに大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(1871)、横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、同五年、海軍省に移管し、横浜製造所と改められた。明治六年(1873)、大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にした。同七年、内務省に移管。翌八年、高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなった。明治十一年(1878)、再び海軍省所管。明治十二年(1879)には石川島平野造船所(現・株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、明治十七年(1884)に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は翌年海員掖済会(現・社団法人日本海員掖済会)に貸与された。」
この説明板には、主に明治以降の横浜製鉄所の変遷が書かれています。
そこで、ここでは横浜製鉄所がどのように創設されたのかについて書いてみます。
横浜製鉄所設立の経緯は、横須賀製鉄所(造船所)の建設と深く関わっていることが栗本鋤雲の「匏庵遺稿(ほうあんいこう)」の中の「横須賀造船所経営のこと」に書かれています。
それによると次のような経緯があります。
佐賀藩では、鍋島閑叟の指示のもと、オランダから艦船の修理する機械一式を購入し工場を建設しようと計画しました。
しかし、その経営には莫大な経費がかかることとそれを操作する人がいないことが判明し、佐賀藩でそれを建設することを断念しました。
しかし、その時には、すでに購入した機械類は日本に到着していました。
そこで、佐賀藩では、その機械類を幕府に献納しました。
元治元年、横須賀製鉄所(造船所)の建設にむけて、小栗上野介や栗本鋤雲がフランス公使ロッシュたちを交渉を始めた際には、佐賀藩から献納された機械の3分の2は横浜港に保管されていて、残りは長崎港に保管されていました。
小栗上野介は、この機械が横須賀製鉄所(造船所)の建設の際に活用できないかと考え、フランス側に、活用できるかどうか調査を依頼しました。
フランスのジンソライという海軍士官が調査したところ、この機械は全体的に小振りで馬力もあまり強くないので大きな艦船の造船・修理に活用するのは無理があるものの横浜近辺に据え付けて小さな艦船の修理に活用するのであれば大変有効だという結論でした。
そこで、横浜港に近い太田川の低沼地を埋め立てて製鉄所を建てることになりました。
これが横浜製鉄所の発端です。
「横浜市史」によれば、横須賀製鉄所(造船所)建設のため招かれたヴェルニーは、横須賀製鉄所(造船所)の設立原案の中で、横浜製鉄所についても触れていて、①緊急に着工し年内に竣工すること、②艦船の修理と洋式技術の伝習、➂製鉄、鋳造、旋盤、製罐、製帆、木工などの工場を建設、④鉄工場の中央と後方に蒸気機関を据え付けて工作機械を運転させることなどを提案しています。
幕府はフランス人海軍士官ドロールを首長(所長)に任命し、慶応元年2月3日に起工し、建物は早くも8月24日竣工し、各工作機械を据えて、9月下旬には横浜製鉄所が完成し開業しました。
幕府が倒れても横浜製鉄所は存続し明治新政府に引き継がれました。
明治以降の変遷は、横浜市教育委員会の説明のとおりです。
石川町中華街口は、名前の通り、中華街に行く人々も多く利用する出口ですので、中華街に向かう前に、幕末から明治初期には、当時の最新鋭を誇る機器を備えた工場があったことに思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。