湯島大小砲鋳立場(幕末の大砲製造所①)
文京学院大学の「日本の近代化に貢献した幕臣たち」の講義では、小栗上野介の生涯と業績についてお話しました。
小栗上野介の最大の業績は、横須賀製鉄所(造船所)を建設したことですが、その他、兵庫商社の設立、フランス軍事顧問団の招聘、横浜フランス語学伝習所の設立など多くの功績があります。
そうした功績の中で、大砲など近代兵器の製造所の建設についても小栗上野介が関与していたことは、あまり知られていないように思います。そこで、今日からは大砲製造所の建設についての小栗上野介の功績について数回にわたって書いてみます。
ペリー来航により、江戸湾防衛の強化の必要性を強く認識した幕府は、江戸湾の品川沖に台場を築造することにしました。
この築造を命じられたのが江川太郎左衛門でした。
台場は、当初11基築造される計画でした。(御殿下台場は当初の計画にありませんでした。)
第1号から第3号の台場は嘉永6年(1853)8月21日に着工しました。そして、翌年安政元年4月には完成しました。着工から完成まで、わずか8ヶ月という短期間での寛政でした。5号と6号の二基の台場と御殿山下台場は、安政元年(1854)1月に着工し11月に竣工しました。しかし、4号と7号は、着工はしたものの工事途中で築造が中止され、8番以降の台場は財政難のため着工もされませんでした。
このお台場には、大砲が備えられました。下写真は、台場公園(もとの第三台場)に設置されている砲台跡です。ただし復元したものだそうです。
台場に備えられた大砲は、これまで大砲を製造した実績のある佐賀藩に注文し、江川太郎左衛門も大砲製造を命じられ韮山で製造しました。佐賀市史によれば、幕府から佐賀藩は52門の大砲の注文を受けています。
その後、分散発注では問題があると考えた幕府は、大砲を幕府自身で製造することとして、湯島聖堂の西隣にある「桜の馬場」に大砲を製造する「湯島馬場大筒鋳立場」を建設しました。ここは、のちに小銃も製造することとなり「湯島大小砲鋳立場」となりました。
「湯島大小砲鋳立場」は、現在は、東京医科歯科大学となっています。下写真は、御茶ノ水駅西口に架かる御茶ノ水橋の南たもとから撮影した東京医科歯科大学です。
当時の大砲は青銅製のもので、土中に筒形の鋳型を設置し、それに青銅を流し込み製造する方式でしたが、この方式には欠点がありました。
その欠点とは、外側と内部から少しずつ冷えるため砲身に間隙(気泡)ができて発射の衝撃で破損してしまうことでした。
こうした欠点をクリアするため、西洋では、型に熔解した銅を注いで棒状の砲身に鋳立て、その後、棒状の砲身の芯をくりぬいて筒状に仕上げる方式が採用されていました。この方式は「錐(きり)入れ」と呼ばれていたようですが、この方式を採用するにあたっては、砲身をくりぬく動力として水車の力が必要でした。
しかし、「湯島大小砲鋳立場」は、御茶ノ水の台地上にあり、台地を切り裂いて流れる神田川から水を取り入れるのは非常に困難でした。
そこで、水力を動力源とするのに適した水車場を探したところ湯島より上流で神田上水の関口大洗堰近くの小日向水道町に二つの水車があり、これを利用して神田川の水を取り込んで関口水道町に大砲製造所を建設することが上申されます。こうした建設されることとなったのが「関口大砲製造所」ですが、これについては次回説明します。