関口大砲製造所(幕末の大砲製造所②)
湯島大小砲鋳立場を移転させることが検討され、その候補として挙げられたのが関口水道町でした。ここに設立された大砲製造所が「関口大砲製造所」です。
この関口水道町への移転についての上申書「鋼製大砲鋳立方之義に付御内意奉伺候書付」が海舟全集第6巻「陸軍歴史上」の中に記載されています。原文は漢文ですが、わかりやすいようにいくらか修正して記載します。
「取調べ候ところ小日向水道町にて町人所持の水車場2ヶ所これあり、右北手へお取建て相成り候えば水掛り十分しかるべき場所に相見え。もっとも右のほかにもなるたけ製作所が最寄りの方便利につき牛込船河原橋際の方も大曲あたりより水盛りいたし候ところ地勢平坦勾配少く自余しかるべき場所も御座なく」
これによると関口水道町(上申書では小日向水道町となっている)には、民間の水車が昔から2基あるので、その北側に建設すれば水勢は十分な場所と考えられる。
また、関口水道町より下流の牛込舟河原町付近も候補地に挙げられたようですが、ここは地形が平坦で水勢が弱く関口水道町より劣ると判断されたようです。
新たな大砲製造所が設置された関口水道町は現在の江戸川橋の南一帯にありました。下写真は江戸川橋の交差点ですが、この辺りが関口水道町でした。
江戸川橋交差点の北西側に「プラザ江戸川橋」がありますが、この辺りに「関口大砲製造所」が設置されていたようです。下写真が「プラザ江戸川橋」です。ビルの一画には「江戸川橋交番」があります。
関口水道町での大砲製造所建設にあたってのキーポイントは水車の建設ですが、水車の建設に関する文久2年10月付の江戸南町奉行であった小栗豊後守あての文書が「関口大砲製造所」(大松騏一著)に載っています。
それによると神田上水の大洗堰から神田上水の北側に堀を開削し、神田上水を懸樋(かけひ)で渡して水利を確保したようです。
神田上水と関口大砲製造所の関係がわかるものが江戸川橋の橋上から撮った下写真です。
写真中央を流れているのが神田川(江戸時代は江戸川と呼ばれていました)です。江戸川橋の上流約400メートルのところに大洗堰がありました。
この写真左手の建物が「プラザ江戸川橋」で、この付近に関口大砲製造所がありました。
関口大砲製造所には、最新式の工作機械も設置されていたようです。
従来の大砲は、砲身の内部が滑らかでした。しかし、砲身の内部に螺旋状の溝(ライフル)を切ることにより、射程距離も長くなり、命中率も高くなります。ヨーロッパでは、螺旋状の溝を切った大砲が普及し始めていました。
そこで、関口大砲製造所でも、螺旋状の溝を切った大砲を製造しようとしたようです。
文久元年12月には大砲に螺旋を切る工作機械をオランダに発注する「便利之器械御買上げの義に付申上候書付」が海舟全集第6巻「陸軍歴史上」に収録されています。原文は漢文ですが、読みやすいように一部修正してあります。
「当時西洋にて專(もっぱ)ら相用い候大小砲ともすべて集中へ螺旋(らせん)をつけ、在来の形の分をも追々同形に相直し候ほどの義にて武備要用に相聞え候につき御試のためまず大小砲を右形に製作仕り候器械御買上げに取計り、右御入り用一同取り束ね精々吟味仕り候ところ別紙の通にて不相当の義も御座なく候」
このように大砲に螺旋を切る工作機械や小銃を操る工作機械を外国に発注するよう上申されています。
なお、この上申書は、竹内下野守(勘定奉行)、松平石見守(外国奉行)、京極能登守(目付)の連名で出されています。この三名は文久元年12月に、江戸・大坂両市の開市と兵庫・新潟二港の開港延期交渉ためヨーロッパ各国に派遣された正使竹内下野守保徳、副使松平石見守康直(後の松平康英)、目付京極能登守高朗の三名です。