小栗上野介の上申により江川太郎左衛門解任される(幕末の大砲製造所➂)
小栗上野介は、元治元年5月に大小砲鋳造事務取扱に任じられます。大小砲の製造の責任者となったわけです。
そのため、小栗上野介は、関口大砲製造所の運営にも関与し、就任早々、若年寄松平乗謨(のりかた)から、湯島大小砲鋳立場と関口大砲製造所の合理化について下問がありました。
小栗上野介は、人員の削減、関口に反射炉を建設することの再検討や湯島大小砲鋳立場を廃止し関口大砲製造所に統合することなどを提案します。
これらの小栗上野介の提案は幕閣の承認するところとなりました。そして、反射炉の建設予定地としては関口は適地でないので、しかるべき地を探すことと命じられるとともに、御仕法が変更されたので、湯島大小砲鋳立場を廃止し、受注分の残りは関口大砲製造所で製造するよう命令が出されました。
さらに湯島大小砲鋳立場が廃止され関口大砲製造所に一本化されたことから人員も削減されることになりました。
このように湯島大小砲鋳立場が廃止されることとなったのに合わせて、従来、湯島大小砲鋳立場で大砲製造を主導していた江川太郎左衛門(英敏)が解任されることになりました。
海舟全集第6巻「陸軍歴史上」には、次のように書かれています。
「御鉄砲方御代官兼帯江川太郎左衛門
大小砲製造場の義、このたび御仕法替え仰せ出され、引き請け取り扱い候主役を仰せ付けられ候については、同所御措置振り・御仕法等、すべて陸軍奉行ならび小栗上野介へお任せなられ候につき江川太郎左衛門義は右御用御免なられ候間、その段申渡しなられべく候。」
江川太郎左衛門が解任された背景には、これまでの江川太郎左衛門家の砲術は高島秋帆から学んだオランダ流の砲術でしたが、小栗上野介は、これを最新式のフランス方式に変えようという考えがあったものだと思われます。
江川太郎左衛門英敏の御役御免に際して、「嘉永六丑年起立より当子年まで十二ヶ年相勤め候」として褒賞金銀二十枚が授与されています。
江川太郎左衛門に代わって登用されたのが武田菱三郎(あやさぶろう)です。
武田菱三郎は、箱館の五稜郭を設計したことで有名ですが、英語、航海術、砲術、築城術などを教える箱館の「諸術調所」で教授していましたが、元治1年(1864)、幕府の洋学を教授する「開成所」の教授となっていました。