小栗上野介、王子分水開削(幕末の大砲製造所⑤)
滝野川反射炉を建設するにあたって最も重要なポイントは、錐台(すいだい)の動力源である水車を動かす水をどう確保するかでした。そこで、検討の俎上にあがったのが千川上水でした。
千川上水は、日本大百科全書(ニッポニカ)には、次のように書かれています。
「江戸北部に飲料水を供給するため、1696年(元禄9)河村瑞賢(ずいけん)の設計によってつくられた、現在の東京都西東京市から文京区湯島に至る上水道用の用水路。玉川上水を保谷で分水し、石神井、長崎、板橋を経て、巣鴨の庚申塚溜池(こうしんづかためいけ)に入れ、ここから地下に埋められた樋で、湯島聖堂、寛永寺、白山御殿、浅草寺など将軍御成りの所、さらに神田上水の給水地域以東の現在の文京区、台東区の武家屋敷や社寺、町屋八十余か町に給水した。延長約30キロメートル。仙川村の太兵衛、徳兵衛の監督により完成し、その功により千川の姓を賜り、上水の名もこれによってつけられた。1722年(享保7)上水利用は廃止されたが灌漑用水としては利用された。」
千川上水は、上記の説明の通り、巣鴨まで開渠で流れていました。都営地下鉄三田線西巣鴨駅から徒歩4分の地に「千川上水公園」があります。(下写真)
その入り口にある豊島区教育員会設置の「千川上水調節池跡」の説明板には次のように書かれています。
「(千川)上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江市中へ給水されました。」と書いてあります。
この巣鴨の庚申塚溜池の西側は滝野川村となっていて、そこを千川上水が流れていました。
小栗上野介は、この千川上水を利用して滝野川に反射炉を建設しようと考え作事奉行と交渉したものの、作事奉行からは色よい回答が得られませんでした。そうした状況で、前回紹介した小栗上野介と勘定奉行三名との連名で提出された「滝野川村地内反射炉錐台(すいだい)御取建之義に付申上候書付」では、幕閣から「厳しく御作事奉行へ御内論之御沙汰成下さるべく候」と作事奉行に指示するようお願いしています。
こうした働きかけにより勘定奉行と作事奉行との折り合いがついたため、11月には、石神井川を利用して大砲製造所に船で物資を輸送するために、石神井川の拡幅工事が開始され、王子石堰(いしぜき)から下流の川幅の切り広げる工事と川床を下げる工事が行われました。さらに、千川上水の広尾水車から溜池までの水路を拡幅し、溜池から滝野川までの間を新たに開削する工事が行われることとなりました。
「北区史」によれば、工事は、慶応元年9月中旬から11月末頃までの約2か月半をかけて行われました。
工事は、滝野川村内平尾水車前(現板橋区板橋1丁目16番地付近)から高桝跡(現滝野川6丁目9番地付近)までの従来の千川上水の拡幅工事と高桝跡から大砲製造所建設予定地までの新たな堀を開削する工事が行われました。
従来の千川上水の拡幅工事の長さが474間半、新しい分水の開削工事も含めた全長は1218間半(約2215.2メートル)でした。これを52工区に分けて工事を行いました。これに要した人数は延べ25370人、費用はおよそ2,589両と「北区史」に書かれています。
巣鴨から滝野川まで新たに開削された分水は、王子分水もしくは反射炉分水と呼ばれました。
下記赤字部分が千川上水公園です。