旧醸造試験所第一工場(幕末の大砲製造所⑥)
王子周辺の散策ポイントは飛鳥山公園ですが、飛鳥山公園からは西側で王子駅から徒歩10分のところに国の重要文化財に登録されている「旧醸造試験所第一工場」があります。飛鳥山公園は桜の名所でもあり、北区飛鳥山博物館や渋沢栄一史料館などの博物館があり、多くの人が訪ねていますが、その飛鳥山公園とは異なりマイナーなことから「旧醸造試験所第一工場」を訪れる人もまばらという印象です。下写真が正面玄関からみた「旧醸造試験所第一工場」です。
建物は、通称「赤煉瓦酒造工場」といわれていたそうですが、その通称の通り、赤い煉瓦造りの印象的な建物です。この「旧醸造試験所第一工場」付近に滝野川反射炉がありました。
「旧醸造試験所第一工場」の西側一帯は、「旧醸造試験所跡地公園」となっています。醸造試験場は、平成7年に東広島市に移転したため、その跡地の一部が「醸造試験所跡地公園」となり、公開されたのです。下写真は王子駅側の公園入口を撮ったものです。
その公園の中央部に北区教育委員会が設置した説明板があります。(下写真)その説明がコンパクトに旧醸造試験所第一工場のことを説明していますので、それを引用しておきます。
『国指定重要文化財(建造物)旧醸造試験所第一工場
醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良を図ること、講習により醸造技術や研究成果を広く普及させること等を目的に設立された国の研究機関です。創立は、明治37年(1904)5月で、酒税とも密接なかかわりを持つことから、大蔵省が所管することになりました。
醸造試験所が設置された場所は、幕末に滝野川大砲製造所が置かれた敷地の一部で、水利が良く、王子停車場(現王子駅)も近いことなどから「洵(まこと)に得難き好適地」として選定されました。
第一工場は、試験所の中核施設として、蒸米、製麴(せいきく)、仕込み、発酵、貯蔵などの作業が行われていました。建物の設計および監督は、大蔵省技師の妻木頼黄(つまきよりなか)が担当しています。一部三階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造りで、外観を化粧煉瓦小口積とし、外壁上部は煉瓦を櫛形に並べたロンバルド帯風の意匠となっています。躯体の煉瓦壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備える等、一年を通して醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を応用した設計がなされています。製麴室の白色施釉(せゆう)煉瓦積の壁や、鉄骨梁に半円形状に煉瓦を積んだ耐火床(たいかゆか)など、屋内にも特徴的な煉瓦造りの部分を見ることができます。
昭和20年(1945年)に空襲で被災し、屋根部分は葺き直されていますが、その他は当時の様子をよくとどめています。』
赤字で印した通り、醸造試験所があった場所は、滝野川反射炉が設置された滝野川大砲製造所があった場所です。
なお、この建物を設計した妻木頼黄(よりなか)は、辰野金吾、明治建築界の三大巨匠の一人にあげられるほどの著名な建築家です。明治建築界の三大巨匠とは、妻木頼黄のほか、東京駅や日本銀行などを設計した辰野金吾、迎賓館赤坂離宮などを設計した片山東熊をいいます。妻木頼黄の設計した建物としては日本橋や横浜正金銀行(現在の神奈川県立博物館)などが有名です。
「旧国立醸造試験所第一工場」や「跡地公園」の敷地内に、滝野川反射炉のなごりを示すものはほとんど残されていません。しかし、たった一つだけありました。それが「旧国立醸造試験所第一工場」敷地内にある「錐台(すいだい)」です。(下写真)
「錐台」の脇には「錐台銘」と書かれた説明板が設置されていて、次のように書かれています。(下写真)
『元治元年(1864年)江戸幕府はこの地を王子村名主より買い上げ、大砲鋳造の用地とし反射炉と錐台(砲身の穴あけ機)を置いた。
明治時代に入りこの用地は大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられたが、明治35年(1902年)10月大蔵省醸造試験所設立に際し移譲され、現在は錐台の一部だけが残っている。 昭和48年1月
平成7年7月東広島市への移転に伴い、ここに移設した。平成7年7月』
北区飛鳥山博物館発行の「近代工業化のルーツ 滝野川反射炉展」によると、反射炉が建設された場所は「現在の滝野川2丁目48番地36号付近に比定される」とされています。「醸造試験所跡地公園」の西側は住宅地となっていて、その一画に社宅風のマンションがあります。そこが滝野川反射炉が建設された地点だと思われます。
下写真は、以前訪問した際に撮影した韮山反射炉と那珂湊反射炉です。下写真のように東京近郊の滝野川の青空を背景に反射炉がそびえたっていたと考えるとロマンティックな気分になりました。
下地図の赤印が旧醸造試験所第一工場です。