王子分水跡〈推定〉を歩く (幕末の大砲製造所⑦)
王子分水は、小栗上野介らの上申により、滝野川反射炉での動力源とするため、千川上水の巣鴨沈殿溜り(現在の豊島区立千川上水公園)から滝野川反射炉(現在の旧醸造試験場第一工場)まで新たに開削された分水路です。
現在は、王子分水はまったくその姿を残していませんので、どこをどのように流れていたのかわかりませんが、「北区史」には江戸時代の古地図を翻刻した地図が掲載されているので、それを見るとおおよその流路がわかります。
「北区史」に掲載されている地図では、王子分水は、当時の滝野川村と巣鴨村の村境を流れたのち、巣鴨村と西ヶ原村との村境からは北に流れを変えて滝野川反射炉まで流れていました。
滝野川村は現在は北区滝野川となっていて巣鴨村は現在は豊島区となっていますので、現在の都電荒川線「西ヶ原四丁目駅」付近までは現在の北区と豊島区の区境を流れていたものと推定されます。下記地図は西巣鴨駅周辺の豊島区と北区の区境を示した地図ですが、「千川上水分配堰碑」(下地図の①付近)から「西ヶ原四丁目駅」付近(下地図の②付近)までは豊島区と北区の区境(赤線部分)を王子分水が流れていたものと私は推定しています。
私が推定する王子分水の流路跡を、先日歩いてきましたので、今日はその王子分水の流路跡(推定)をご紹介します。
王子分水のスタートは、「千川上水分配堰碑」と思われますので、まずそこをスタート地点としました。上記地図の記号①の地点です。
千川上水公園前の明治通りを挟んだ向かい側に「千川上水分配堰碑」と北区教育委員会が設置した文化財説明板があります。下写真は千川上水分配堰碑の写真です。
文化財説明板には次のように書かれています。
「正面に「千川上水分配堰(ぶんぱいぜき)」とあるこの碑は明治15年(1882)7月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治42年3月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより取水量が定められていたことがわかります。
千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠(あんきょ)となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865)11月、飛鳥山の西側(滝野川2-6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。
明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ケ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙(しょうし)会社・大蔵省紙幣寮抄紙局(しょうしきょく)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守(じゅんしゅ)するために、碑をここに設置しました。」
説明板の脇に石碑があり、碑の正面には「千川上水分配堰」と刻まれています。(下写真)
千川上水公園近くで分水された王子分水は、現在の明治通りに沿って北上しました。つまり、この近くでは北区と豊島区の区境は明治通りです。
明治通りと旧中山道が交差する交差点が「堀留」です。(下写真)。この「堀留」という地名は千川上水の開渠(水路が地上が見える堀となっている)が終了していることによるものです。
明治通りは大正大学を越えてさらに北に向かいます。下写真は大正大学正門です。
大正大学を過ぎると明治通りは右にカーブしていきます。しかし、カーブし始めた地点に真北に向かっていく路地があります、この路地の西側が北区滝野川で路地の東側が豊島区巣鴨となっています。つまりこの路地が北区と豊島区の区境となっていますので、ここを王子分水が流れていたと私は推定します。 前記地図の➂の部分をご覧ください。下写真は、明治通りから左手に入った路地です。
上写真の路地を過ぎると白山通りになりますが、豊島区と北区の区境は白山通りを超えて北上していき、高速道路の真下で直角に東に曲がります。王子分水もここを流れていったものと思います。下写真は白山通りからみた王子分水(推定)跡です。写真正面は首都高速中央環状線です。
首都高速中央環状線の下を直角に曲がった後は、東に向かって流れていったものと思います。下写真は首都高速中央環状線の直下の王子分水(推定)跡です。
都電荒川線西ヶ原四丁目駅近くの天理教麹町大教会があります。(下写真)
王子分水は、天理教麹町大教会の角をほぼ直角に曲がり北上して流れたものと思います。写真の左手が天理教麹町大教会です。右手の道路を王子分水が流れたものと思います。
下地図の中央が天理教麹町大教会です。
天理教麹町大教会の北側にある滝野川一丁目交番近くに庚申塚がありました。下写真の左手が庚申塚で、右手の道路を王子分水が流れたものと思います。
桜丘中学校・高等学校近くでは、道路が南から北に下っていますので、王子分水も北に向かって下がっていたものと思います。下写真は桜丘中学校・高等学校近くの交差点北側から南方向を撮ったものです。写真左手が桜丘中学校・高等学校です。写真でははっきりわかりませんが、南から北へ道路が下っています。
下地図中央が桜丘中学校・高等学校です。
王子分水のゴールは、旧醸造試験所第一工場付近です。王子分水は、旧醸造試験所第一工場(下写真の中央)の前の道路を流れていたのではないかと考えています。写真左は「醸造試験所跡地公園」です。