滝野川・王子の近代工場の礎は滝野川大砲製造所(幕末の大砲製造所⑧)
滝野川反射炉が現実に完成したのかどうかは長いことハッキリしていませんでした。しかし、「近代工業のルーツ 滝野川反射炉展」(北区飛鳥山博物館発行)によれば、最近の研究の結果、慶応2年10月頃に滝野川反射炉が完成したと考えられるようになっているようです。
その一方で、大砲が実際に製造されたのかは明確になっていないようです。
滝野川反射炉は、砲身の内部を研削する錐台も設置され、全体で滝野川大砲製造所と呼ばれました。
滝野川大砲製造所が、幕府が倒された後、どのようになったのかも不明です。しかしながら、滝野川大砲製造所は、明治になってから滝野川や王子地域に多く設立された近代工場群の礎となりました。
このことを明確に書いているのが「北区史」です。「北区史 通史編 近現代」の「近代工場のあけぼの」の中で次のように書かれています。
「明治初期の北区域では、王子・滝野川を中心に、欧米の先進機械を導入して生産を行う近代工場近代工場設立の前提の先駆けともいえる工場が相次いで設立された。1872年(明治5)の冬に操業を開始した鹿島紡績所、1875年12月に開業式を行った抄紙会社、翌1876年2月に竣工した官営の紙幣寮抄紙局(しょうしきょく)などが、その代表的なものである。これらの工場が王子・滝野川の地に置かれたのは、水の恩恵によるところが大きい。水力は、当時の主要な動力源であり、また製紙業では、製造過程において多量の水が必要であった。千川上水・石神井川の流末に位置する王子・滝野川では、こうした工業用水が入手しやすい環境にあったわけである。
また、これらの工場が置かれた前提として見逃せないのが、幕末期に滝野川村に設置された大砲製造所との関係であった。徳川幕府は、幕末の不安定な政情を背景に軍事施設の江戸周辺地域への集約を図り、1864年(元治元)、滝野川村内(現在の醸造試験場周辺)に大砲製造所の設立を計画、翌年には、豊島村・王子村周辺の石神井川を拡幅・浚渫(しゅんせつ)して通船できるようにすると同時に、砲身をくりぬく錐台(すいだい)の動力を得るために水車の設置を企図し、千川上水を分水して、村内に新規の堀割を通す工事を実施していた(『通史編近世』第八章第二節参照)。大砲製造所はその後、幕府が瓦解したこともあって十分に機能しなかったといわれるが、このときの工事によって分水された千川上水の一部は、石神井川に流下することになり、大砲製造所の跡地はいくつかの曲折を経たのちに陸軍省用地となった。このような基礎工事の痕跡が、明治初期に近代工場を設立する際の立地条件として非常に有利にはたらいたのである。」
明治になって、滝野川・王子に鹿島紡績所や王子製紙などが設立されます。これらの設立には、滝野川大砲製造所建設のために千川上水から分水され新たに開削された王子分水が大きな役割を果たしました。これが、滝野川大砲製造所が滝野川・王子地区の明治時代の近代工場の礎とされる由縁です。
鹿島紡績所と王子製紙については次回説明します。