行田市にある鳥居強右衛門ゆかりの地(「長篠の戦い」①)
今月中旬に「長篠の戦い」の古戦場を見に行きます。そのため、現在、「長篠の戦い」について猛勉強中です。
「長篠の戦い」は、日本史で必ず学ぶ有名な合戦ですので、多くの方がご存知だと思いますが、『日本大百科全書ニッポニカ』でどう書かれているか最下段に付記しましたので、興味のある方はご確認ください。
「長篠の戦い」で有名なのは、織田信長・徳川家康連合軍が3千挺の鉄砲で武田騎馬軍団を撃破した設楽原(したらがはら)の決戦ですが、それ以前に、長篠城の攻防戦がありました。長篠城を守っていた奥平信昌は、徳川家康に救援を求めて使者を出しました。この使者となったのが鳥居強右衛門です。
鳥居強右衛門については国史大辞典では小和田哲男先生が次のように説明されています。
「鳥居強右衛門:戦国時代の武将。三河長篠城主奥平信昌の家臣で、天正三年(一五七五)五月の長篠の戦の前哨戦で活躍した。すなわち、長篠城が武田勝頼の大軍に囲まれ、落城寸前になったとき、城中での軍評定の場において徳川家康のもとに援軍を求める密使として城を出ることを申し出、実行した。予定通り岡崎城に至って家康に長篠城の窮状を伝え、すぐに家康および織田信長が出陣するという返事を得て長篠城に戻ってきた。ところが、城に潜人するところを武田軍に捕えられてしまい、武田側ては、強右衛門を城近くに連行し、『援軍はこないから降参するように』といわせようとした。強右衛門はそのことを承知し、城中に向かってしゃべることになったが、実際にいったのは『すぐ援軍が到着する』との内容だったのである。そのため強右衛門は怒った武田勢のために磔にかけられ、殺されてしまった。」
長篠の戦いで重要な役割を果たした鳥居強右衛門についても勉強していたら、埼玉県行田市には、鳥居強右衛門の子孫の菩提寺、さらに住んでいた屋敷跡があることを知りました。そこで、昨日、菩提寺「桃林寺(とうりんじ)」と行田市史跡「鳥居強右衛門屋敷跡」を訪ねてきましたので、これから3回にわたりご紹介します。
まず、「長篠の戦い」で亡くなった鳥居強右衛門の子孫のゆかりの地が行田市にある経緯から説明します。
行田市は、江戸時代は忍(おし)と呼ばれ譜代大名が代々藩主となった忍藩の城下町です。下写真は忍城址公園に昭和63年に再建された御三階櫓(ごさんかいやぐら)です。

江戸時代後期の文政6年(1823)伊勢国桑名藩より松平忠堯(ただたか)が移封され、明治維新まで、松平家が藩主として忍藩を治めました。
多くの松平家がある中、忍藩主となった松平家は代々の藩主が下総守に任官したことから、松平下総家と呼ばれました。行田市郷土博物館で令和2年に開催された企画展の名前は「収蔵品展『忍藩主松平下総守家』」となっています。(下写真)また、初代藩主である松平忠明(ただあきら)が奥平家の出身であったことから奥平松平家とも呼ばれます。ここでは。奥平松平家と記載しておきます。

さて、奥平信昌は正室である徳川家康の長女亀姫との間に4人の男の子があり、次男家治は、徳川家康から養子になるよう望まれ、松平姓を名乗り、別家を立てました。しかし、家治は、14歳の時に病死してしまいました。家治を可愛がった徳川家康は、家治同様に賢かった四男の忠明に家治の跡を継がせました。こうして奥平忠明は松平忠明となり、奥平松平家の初代藩主となりました。
一方、鳥居強右衛門が亡くなった後、子の2代目強右衛門は父の功労により100石を給されて引き続き奥平信昌に仕えました。
奥平信昌は、家治が別家を立てた時、信頼できる家臣を家治に付属させましたが、この家治に付属させた家臣の中に2代目の鳥居強右衛門がいました。こうして2代目鳥居強右衛門は松平家治の家臣となりました。しかし、家治が亡くなったため一旦奥平家に戻り関ヶ原の戦い後、西軍の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)をとらえ200石加増されました。その後、別家を立てた松平忠明の家臣となりました。
忠明に付属された際、亀姫が忠明に対して、鳥居強右衛門は「忠死」したと語ったという話が残されていることを「鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂」(下写真)の中で次のように書いています。
「(鳥居強右衛門が)実在か否かという点で参考となりそうなのは、大坂の陣のおり、亀姫が子の忠明に言い渡したとされる内容である。このとき亀姫は忠明に対し、先祖が忠死したので、とくに末代まで疎略に扱ってはいけない(「先祖は忠死致候間、特に末々迄不被遊御如才(ごじょさいあそばれざる)旨に候」)者として、黒屋甚九郎と鳥居庄右衛門三代) の二人を彼に付属させたという。」
なお、金子先生自身は亀姫が前述の趣旨を書いて出したという書状を確認できていないので「右の話の真偽は定かではない。もし亀姫の書状があるのなら、大坂の陣の時点で奥平家には強右衛門が「忠死」したという認識があったことになり注目すべきである」と付言してあります。

松平忠明は、慶長7年(1602)三河国作手(つくで)城主となり、その後、伊勢亀山城となり。大坂夏の陣の後には大坂城をまかされました。のち大和郡山藩主をへて、寛永16年(1639)姫路藩主となり、寛永21年に亡くなりました。62歳でした。
松平忠明が亡くなった後の奥平松平家は、転封が続き、山形藩、宇都宮藩、白河藩、山形藩、福山藩を経て、宝永7年(1710)に桑名藩に入封しました。そして、桑名を110年ほど治めた後の文政6年(1823)忍藩への転封を命じられました。この時、忍藩主である阿部家は白河藩へ、白河藩主の松平家が桑名藩に転封されるという三方領知替えでした。
こうして、奥平松平家が忍(現在の行田市)に来ることとなり、家臣である鳥居強右衛門の子孫も忍(現在の行田市)で暮らすこととなりました。そして、忍(現在の行田市)で明治維新を迎えることとなったのです。
こうした事情があったため、鳥居強右衛門の子孫ゆかりの地が行田市に残されました。
次回は、鳥居強右衛門の子孫のお墓がある桃林寺(とうりんじ)についてご紹介します。
『日本大百科全書ニッポニカ 長篠の戦い』より転載
「(武田勝頼は)1575年4月長篠城を包囲した。急報を受けた家康はただちに盟友織田信長の援軍を請い、信長は5月14日岐阜から岡崎に着陣、家康とともに長篠城救援に向かった。このとき長篠城から岡崎へ使者にたった鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が、帰路武田方に捕らえられ、城内へ援軍の到来を叫び報じて磔に処せられた話は有名。信長は岐阜出発の時点からこの合戦において鉄炮を主戦力として用いることを計画し、3000挺の鉄炮を準備、長篠城の西方設楽原(したらがはら)に馬防柵を築いて陣を敷いた。勝頼も兵を設楽原へ移し、徳川・織田連合軍と対峙した。5月21日徳川の将酒井忠次らは武田方の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。後方を攪乱された武田軍は設楽原決戦を挑み、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に妨げられ、信長の側近部将が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びて多数の将士を失った。」

