「忍藩家老 鳥居強右衛門居宅跡」碑(「長篠の戦い」➂)
長篠城の攻防戦で使者として武田軍の包囲のなかをくぐり抜けて徳川家康と織田信長に救援を直訴した後、長篠城に戻ったものの武田軍に捕まり城外で磔になった鳥居強右衛門の子孫は、2代目鳥居強右衛門が付属された奥平松平家に代々仕えました。
奥平松平家は、忍藩最後の藩主となり明治維新を忍(現行田市)で迎えたため、鳥居強右衛門の子孫の屋敷跡が行田市に残されています。
秩父鉄道行田市駅から徒歩6分の距離のところにある行田市商工センターの西側の道路脇に「忍藩家老 鳥居強右衛門居宅跡」の石碑が建てられています。(下写真の右建物が行田市商工センター。左の建物の植え込みに石碑があります)

鳥居強右衛門の家系は、初代鳥居強右衛門の功績から、奥平松平家で代々家老に任じられる家系でした。「行田市史」下巻1p161の「忍城松平分限帳」の中で、次のように書かれています。
「家老は何れも門閥であるが、その祖先の功績により子孫にその栄誉がえられるのである。その家柄が総てを決定し、その家門の由来を簡単に述べる。(中略)
鳥居強右衛門 十四代を重ねた。祖勝商(かつあき)通称強右衛門は奧平貞能(さだよし)及び信昌に仕え、長篠条籠城の時軍使となってその任務を全うしたが、遂にこれに死した。其子強右衛門重く用いられ、忠明公に仕え大阪の役に軍功があり、累進して千二百石に至った。」
石碑は植え込みのなかにあります。表面には「忍藩家老 鳥居強右衛門居宅跡」と刻まれています。(下写真)

石碑が、植え込みの中であるため、石碑の裏面は確認できませんが、「行田史跡物語-忍城史跡碑五十基案内」によれば、裏面には「天正三年(一五七五年)七月十六日三河長篠城救援の軍使として大任を果たし磔死した鳥居強右衛門の十二代商近は松平藩家老五百石としてここを忍の居宅とした。十三代商次が維新の官軍との交渉に家名をあげた。城西桃林寺に六基の墓石あり」と書かれているようです。
明治維新の際の13代目鳥居強右衛門商次は、忍藩が新政府に恭順を示した際に、藩を代表してたった一人で書名するという重大な役割を果たしています。
「行田市史別巻 行田市譚」には次のように書かれています。
「(忍藩は)速やかに帰順の旨を告げ、糧米三千俵と表銃隊、撤兵隊の二小隊を出すこと、二隊の兵は長州に属し板橋駅に至る事を約し、話はまことにすらすらと進んだ。家老五名が誓書に署名して差出す。これを見た楢崎、署名は一人でよい。他日若し藩論相違した時、切腹するのであると、この時少し難色が見えたが、直ちに鳥居強右衛門進み出て署名無事に終った。これを聞き伝え鳥居氏は祖先の名を辱しめずと称賛したのである。誓書は、
御応接の上は、以来賊徒領内へ立入らせ申す間敷(まじく)候。依(よっ)て一札此(くだん)の如し(原候文)三月十一日 鳥居強右衞門
誓書は誠に簡潔であるが、武士に二言なしの固い決意が文外に滲み出ている。一命をかけたもの、否、一藩の運命を掛けているのである。」
鳥居強右衛門が署名した誓書は簡潔なものでしたが、忍藩にとっては大きな誓約書であり、13代鳥居強右衛門にとっても責任重大な署名だったことでしょう。「行田市譚」にも書かれているように、それを引き受けた13代鳥居強右衛門は、強い意志をもった責任感の強い人物だったのではないでしょうか。初代鳥居強右衛門と同様に!
下地図中央が行田商工センターです。

