本證寺と三河一向一揆〈三河三ヶ寺⑴〉 (徳川家康ゆかりの地②)
今回から、先週訪問した徳川家康ゆかりの地について詳しくご案内していきます。まず最初は本證寺(ほんしょうじ)
をご案内します。
本證寺(ほんしょうじ)は、愛知県安城市野寺町野寺にあります。名鉄線南桜井駅から徒歩15分の距離にある鎌倉時代に創建された浄土真宗大谷派の寺院です。山号は雲龍山といいます。下写真は本證寺山門です。

本證寺は、野寺にあることから野寺本證寺とも呼ばれます。同じように針崎(現岡崎市)にある勝鬘寺(しょうまんじ)は針崎勝鬘寺、佐々木(現岡崎市)にある上宮寺(じょうぐうじ)は佐々木上宮寺と呼ばれ、この三つの寺が三河三ヶ寺と呼ばれました。
本證寺の開基は、慶円(きょうえん)とされています。慶円は、下野国小山城主で鎌倉幕府の御家人であった小山朝政の二男として生まれ、俗名は靫負佐兼光(ゆきのえすけかねみつ)といいます。13歳で比叡山に登り、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にも登場している慈円を師として天台の教えを受けて性空(しょうくう)と名乗りました。正治2年(1200)、碧海郡小島村(現在の西尾市小島町)の醍醐山麓に天台宗の一宇を建立したとされています。その後、山頂から矢を放ち、矢が落下した野寺の地に堂宇を建立したと言われていて、この堂宇が後に本證寺となりました。そして、一旦、故郷に帰った後、越後の国府で親鸞の教化を受けて改宗し名を慶円と改めたといいます。
今回、本證寺をお参りした際に、小山興圓(おやまこうえん)住職にご案内いただきました。いただいた名刺に「小山」とあったため慶円の御子孫かもしれないと思い、そのことを尋ねると、小山住職は、直系子孫ではないものの本證寺を開基した慶円(俗名:小山靫負佐兼光)の御子孫で本證寺25代目住職にあたると系図を示しながら教えてくれました。小山住職には、最寄駅の名鉄西尾線南桜井駅まで迎えに来ていただき、本證寺をご案内いただいた後、上宮寺、勝鬘寺までも車でご案内いただきました。本当にありがとうございました。下写真は本堂前で合掌する小山興圓住職です。

本證寺は、三河三ヶ寺の一画として佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺とともに、三河一向一揆の中心となりました。
三河一向一揆は、永禄6年(1563)の9月から翌年3月にかけて三河国岡崎周辺で勃発した一向一揆で、徳川家康の三大危機の一つに数えられています。ちなみに徳川家康の三大危機とは①三河一向一揆②三方ヶ原の戦い➂伊賀越えの三つです。
永禄6年(1563)に、三河三か寺と土呂本宗寺(とろほんしゅうじ)を中心とした一向宗寺院は、徳川家康と対立し、数多くの一向宗門徒や家康の家臣団を巻き込んだ三河一向一揆へと発展しました。
この三河一向一揆の中心寺院の一つとなった本證寺では、一揆が勃発する前年の永禄5年(1562)に、9代玄海が加賀一向一揆に参加し加賀で戦死したとされています。その後を継いで本證寺10代となったのが、蓮如の曽孫である空誓(くうせい)でした。
「安城市文化財調査報告書第5集『雲龍山本證寺調査報告書』」のよると三河一向一揆の発端については本證寺説と上宮寺説があるものの本證寺が妥当としています。三河三ヶ寺を中心とした一向宗門徒が蜂起すると、一向宗門徒であった徳川家康の家臣のなかには、三ヶ寺に立てこもるものも出てきて、徳川家康と対決しました。
永禄7年(1564)正月には、本格的な戦闘が開始され、大久保一族のこもる上和田砦や小豆坂で戦闘が行われました。その後、2月になると和議の機運が盛り上がり、両者の間で一旦和議が成立しました。しかし、その後、和議が破棄され、徳川家康は、一向宗寺院の破却、僧徒追放を断行し、領内の一向宗を禁止してしまいました。こうして、一向一揆は敗北し、本證寺の空誓も、加茂郡菅田和(現在豊田市)へ逃げました。小山住職のお話では、現在も、空誓を匿った人々の子孫とのお付き合いが続いているそうです。
その後、徳川家康の叔母石川妙春尼の尽力もあって、一揆が発生してから20年後の天正11年(1583)に、一向宗門徒が赦免され、天正13年(1585)には、本證寺をはじめとした三河三ヶ寺の僧侶たちも三河に戻ることが許されました。
下記地図の中央が本證寺です。

