高徳院〈桶狭間の戦い⑷〉(徳川家康ゆかりの地10)
桶狭間古戦場伝説地から道路を挟んだ高台の上に高徳院というお寺があります。
高徳院のホームページによると、高徳院は高野山で9世紀に「高貴徳王菩薩」を本尊とした寺院として建立されましたが、明治26年高野山より現在地に移転されたそうです。下写真は本堂です。

高徳院は高台の上にありますので、立派な石段を登っていきます。石段の上には素晴らしい山門が建立されています。山門は昭和62年に建立されたようです。

〈今川義元公本陣跡石柱〉
山門から境内に入ると正面に本堂にあり、本堂に向かって参道が続きますが、参道の脇に「今川義元公本陣跡」と刻まれた石柱があります。(下写真)

この石柱は、昭和50年頃今川義元の直系子孫の芹沢二郎という人物が建立したと「とよあけ桶狭間ガイドボランティア」のホームページに紹介されています。実際に石柱の裏側を見ると「今川義元直系19代 東京芹沢二郎」と刻まれています。(下写真)

〈松井宗信の墓〉
高徳院の墓地に今川義元とともに討死した今川家重臣松井宗信の墓碑があります。明治9年に有松の山口正義が建立しました。(下写真)隣には七石表二号碑があり、松井宗信が戦死した場所だと伝わっているそうです。

松井宗信は二股城主でした。浜松市史には「遠江の有力な土豪」の項目の中に次のように書かれています。
「松井氏
【宗信】松井宗信 その祖助宗は、もと山城国(京都府)の御家人であったが、足利尊氏の将今川範国人道心省の指揮下に従軍していた。【蒲御厨 二俣城】そして義元のときに松井宗信は、鎌田御厨をはじめ二俣・野辺・下平河・津久部、蒲御厨の鶴見・長田両郷の代官職を知行し、今川家の支城二俣を守っていた。すなわち宗信は遠江の中部に所領をもち、今川氏の蔵入地遠江尾奈郷の代官職をつとめ(『蠧簡集残篇』)、在地の武士や有力農の寄親として、その寄子をとおしてその地を支配していた。」
日中戦争当時、上海派遣軍司令官,中支那方面軍司令官となり、南京大虐殺の責任者としてA級戦犯となり,昭和23年12月23日処刑された松井石根(いわね)は、松井宗信の子孫と言われています。
松井宗信の墓の前に豊明教育委員会が建てた説明板があり、次のように書かれています。
松井宗信の墓 遠州二俣城主松井宗信の墓で、明治9年山口正義によって建てられた。正面 松井兵部少輔宗信墓
桶狭間七石表二号碑 明和8年(1771)尾張藩士の人見弥右衛門桼(あつし) ・赤林孫七郎信之が建立した。この場所は、今川義元の重臣松井宗信の戦死の地と伝えられる。正面 松井八郎松井八郎冢或云五郎八

〈今川義元仏式の墓〉
高徳院の山門を降りた桶狭間古戦場伝説地の道路を挟んだ向かい側の土手に今川義元の墓があります。万延元年(1860)に建てられたものです。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれています。(下写真)

今川義元の墓の脇に豊明市教育委員会が設置された説明板があり、次のように書かれています。
今川義元仏式の墓碑 法名を刻んだ建立された供養塔である。今川義元の三百回忌(万延元年)にあたり建てられた。正面 天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峰哲公大居士 右側面 万延元年庚申五月十九日 左側面 願主某

〈お化け地蔵〉
今川義元の墓の並びに「お化け地蔵」と呼ばれているお地蔵様があります。嘉永6年、尾張藩士が建立したものです。地元には亡霊の現れる話が伝えられていたが、この地蔵尊の建立により現れなくなったといいます。(下写真)


