長篠の戦い〈長篠の戦い⑴〉(徳川家康ゆかりの地17)
長篠・設楽原(したらがはら)の古戦場は、9月中旬に、桶狭間の戦いの古戦場を訪ねた翌日に訪ねました。今日から長篠・設楽原の古戦場について書いていきますが、古戦場の詳しい説明の前に、まず長篠の戦いがどんな戦いであったのか概略書いておきます。
長篠の戦いは、天正3年(1575)5月、現在の愛知県新城市にある設楽原において行われた徳川家康・織田信長連合軍と武田勝頼との合戦です。
※長篠の戦いは、まず長篠城の攻防から始まったものの織田・徳川連合軍と武田軍の決戦は設楽原で行われたため、地元を中心に「長篠・設楽原の戦い」と呼ばれることもあります。しかし、このブログでは「長篠の戦い」としておきます。下写真は設楽原古戦場に設置されている馬防柵です。

武田信玄が元亀4年(1573)4月12日に亡くなった後、家督を継いだは武田勝頼は、武田信玄の「3年間は死を秘匿する」との遺言に従って信玄の死を伏せていました。しかし、天正2年(1574)になると、織田信長・徳川家康に対抗するため、東美濃や三河・遠江に侵攻を開始し、天正2年6月徳川方の遠江の拠点高天神城(たかてんじんじょう)(静岡県掛川市)を陥落させました。
そして、天正3年(1575)には、4月12日に甲府で武田信玄の三回忌法要を行った後、長篠城攻略をめざして東三河に侵攻してきました。
長篠城は、天正元年(1573)7月までは武田方でしたが、徳川家康は長篠城を攻め、同年8月、城主の菅沼正貞は開城して退去しました。長篠城を手に入れた徳川家康は、同じ8月に武田方から徳川方となった奥平信昌を城主として長篠城防衛を任せました。下写真が長篠城跡です。

東三河に侵攻した武田勝頼は、天正3年4月長篠城を包囲しました。急報を受けた家康はただちに織田信長の援軍を要請し、これに応えた織田信長は5月13日岐阜から長篠城救援に向かい、14日には岡崎に着陣し18日には長篠城の西方の設楽原に着陣しました。
織田信長と徳川家康の連合軍の到来を知った武田軍内では、長篠城包囲の止め信濃に撤退するとの意見もあったものの最終的に織田・徳川連合軍と対決すると決定され、長篠城包囲のため一部の軍勢を城周辺に残し、主力は設楽原に進出しました。
織田信長は、戦国最強と言われた武田騎馬軍団に対抗するため馬防柵を設置し数多くの鉄砲で撃滅することを計画し、連吾川沿い馬防柵を築きました。5月21日徳川方の酒井忠次を大将とする奇襲部隊が武田方の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い武田軍を敗北させ長篠城も開放しました。後方を攪乱された武田軍は、前面の設楽原での決戦を挑み、騎馬を中心に次々と攻撃をしかけ、戦いは午前8時ごろから午後2時ごろに及びました。騎馬軍団はしばしば織田・徳川連合軍に戦いを挑みましたが、馬防柵と鉄炮に阻まれ、武田軍は、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊、土屋昌次、馬場信春などの信玄以来の宿将をはじめ数多くの将士を失い甚大な被害を受けました。武田勝頼もかろうじて戦場を脱出し信濃へ逃れました。
この戦いで武田軍は壊滅的な損害を受け、その勢いを大きくそがれることになりました。
長篠の戦いは、従来は、『織田信長が準備した3千挺の鉄砲による三段撃ちで、突進する武田騎馬軍団を撃滅させた』と言われ、鉄砲が巨大な威力を発揮した戦国時代画期的な戦いだと言われていました。しかし、最近は、鉄砲の数は千挺であるとか連続的に射撃する三段撃ちはなかったとか、武田騎馬軍団の突撃はなかったと言う様々な説が主張されるようになり、従来の通説は大きくゆらぎつつあります。今後どのように研究が進むか興味がつきません。

