長篠城主奥平信昌〈長篠の戦い⑶〉(徳川家康ゆかりの地19)
奥平信昌は、前回書いた通り、元々は作手村の亀山城の城主でしたが、徳川方に帰参した後、長篠城主となり、武田軍の包囲攻撃に堪えました。
今日は、長篠の戦いの前哨戦である長篠城の攻防戦で武田軍の猛攻をしのいだ長篠城主奥平信昌について書いていきます。
なお、奥平信昌は、長篠の戦いの当時は「貞昌」と名乗っていました。長篠の戦いでの功績を賞した織田信長から「信」の一字を拝領し、「信昌」と名乗りました。従って、長篠の戦いの当時は「奥平貞昌」が正しいのですが、ここでは「奥平信昌」と表記します。
下写真は長篠城本丸跡に建てられている「史跡長篠城阯」の標柱です。

奥平氏の発祥は上野国(群馬県吉井町下奥平)であるとされます。8代貞俊の時に三河国作手に移って、11代貞勝の代までは駿河の今川氏の傘下にありました。
奥平氏は、作手で勢力を拡張し、作手の亀山城の奥平氏、田峯城の菅沼氏、長篠城の菅沼氏が、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれました。
下写真は、長篠城址史跡保存館に展示されていた奥平家の家紋「奥平団扇」です。

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川方から徳川方へ帰属しました。奥平信昌は、12代奥平貞能(さだよし)の長男で、弘治元年(1555)に生まれました。天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いの時には20歳でした。
徳川家康の傘下にあった奥平家は、元亀2年(1571)、武田信玄の三河侵攻を受けました。その際、奥平貞能は、徳川家に帰属することを主張したものの、定能の父奥平貞勝が武田家に従うよう主張し、最終的に武田方に帰属することになりました。
しかし、翌元亀4年(1573)、武田信玄が亡くなったため、徳川家康は、三河領内の武田方諸城に対する働きかけを強めます。
長篠城に対しては、包囲攻撃を仕掛けますが、奥平貞能・信昌に対しては、徳川家康が、娘の亀姫を信昌へ輿入れさせることや領地加増などを条件として徳川方に帰参するよう秘密裏に交渉しました。
徳川勢に包囲された長篠城に対し、武田家は、後詰(救援)として武田信豊。馬場信春らを向かわせました。しかし、長篠城主菅沼正貞は、救援軍の到着前に城を明開城し降伏しました。城主の菅沼正貞は、武田から徳川への内通を疑われ、小諸城に幽閉されましたが、奥平貞能も内通を疑われ、武田方から尋問されました。しかし、奥平貞能は、なんとか武田家の疑いを晴らしましたが、ついに亀山城を退散することを決意し、貞能・信昌父子は、作手の亀山城を一族郎党とともに退去し、徳川のもとに走りました。一方、信昌の祖父貞勝や叔父常勝らは武田家を属することをえらび亀山城に残り、奥平家は親徳川派と新武田派に分かれることになりました。
奥平家では、武田家に人質として奥平信昌の妻や弟仙千代など三人を差し出していましたが、貞能・信昌の離反により、この三人は殺害されます。
徳川家康の娘亀姫が奥平信昌の妻となりますが、奥平信昌自身にとってじは妻を殺害さるという災禍があったうえでの結婚だったわけです。
徳川方についた奥平信昌は、天正元年(1573)、長篠城を預かることになります。
そして、天正3年(1575)になると三河に侵攻した武田勝頼は1万5000を率いて長篠城を囲みました。武田軍の包囲により城の食糧は少なくなり、奥平信昌は家臣の鳥居強右衛門を密かに城から脱出させ、徳川家康への救援要請を行います。鳥居強右衛門は岡崎に到着し徳川家康および織田信長に長篠城の窮状を報告し救援要請をしました。そして、無事役目を果たし長篠城に戻る際に鳥居強右衛門は武田方に捕らわれ磔に処されてしまいました。
織田・徳川連合軍は設楽原に到着し、武田軍との決戦に備えます。一方、酒井忠次が率いた別働隊は鳶ヶ巣山砦を奇襲攻撃し、砦を陥落させ、さらに長篠城を囲む武田軍も攻撃して長篠城を救いました。
鳶ヶ巣山砦を襲撃され長篠城も開放されたことにより退路を断たれた武田軍は織田・徳川軍との決戦を余儀なくされ、織田・徳川連合軍に襲い掛かりました。
数刻にわたる激突の結果、織田・徳川連合軍の大勝に終わりました。
戦いが終わった後、織田信長は奥平信昌の籠城を大いに称え、「信」の徧諱を与え、貞信から信昌へと名乗りを変えましたが、このことは前述したとおりです。
長篠の戦いの後、長篠城は狭いことから廃城とし、奥平信昌は、新たに新城城を築きました。
天正18年(1590)、徳川家康が関東に移封されたため、奥平信昌は、上野国甘楽郡に3万石で入封しました。奥平氏発祥の地である上野国に戻ったことになります。
その後、慶長5年(1600)、奥平信昌は初代の京都所司代に就任し、翌年まで勤めています。そして、慶長6年(1601)、奥平信昌は上野国小幡3万石から、美濃加納10万石に加増転封されます。翌年、奥平信昌は加納で隠居し、家督を3男の忠政に譲りました。それから10数年後の慶長20年(1615)3月、享年61歳でなくなりました。
信昌没後も奥平家は、将軍家から重用され、信昌の長男家昌は、宇都宮藩10万石に封じられた後、古河藩や山県藩に転封された後、再び宇都宮10万石となり、丹後宮津藩主を経て、豊前中津10万石に移封され、中津で明治維新を迎えました。
奥平信昌は正室・亀姫との間に4男1女をもうけていて、末子の忠明は松平姓を名乗り、俗に奥平松平家あるいは松平下総家と呼ばれていて、江戸時代後期に忍藩城主となり、そこで明治維新を迎えました。

