人気ブログランキング | 話題のタグを見る
医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22

 今日は、長篠城攻防戦の際に武田勝頼が本陣を構えた医王寺(&医王寺山)、それと山県昌景などが陣を構えた大通寺(&大通寺山)をご紹介します。下写真は医王寺山門です。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_18103128.jpg



武田勝頼は、51日、長篠城を包囲しました。包囲した人数には諸説ありますが、「信長公記」「三河物語」には15千人と書かれています。

 長篠城包囲の武田軍の布陣は「古戦場は語る 長篠・設楽原の戦い」(新城市設楽原歴史史料館編)にでは「長篠日記」による布陣は次のようであると書いてあります。これをみると長篠城をぐるりと包囲した陣形をとっています。

医王寺山(長篠城北西) 武田勝頼・武田信友(3千人)

大通寺山(長篠城北側)武田信豊・馬場信春・小山田昌行(2千人)

天神山(医王寺山の南)一条信龍・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次(2500)

岩代(長篠城西側)内藤昌豊・小幡信貞(2千人)

篠場野(長篠城南対岸)武田信廉・穴山信君・原昌胤・菅沼定直(1500)

有海村(長篠城南西対岸)山県昌景・高坂昌澄(1千人)

鳶ヶ巣山(長篠城東対岸)武田信実(1千人)


こうした布陣の中で武田勝頼が本陣を構えたのが医王寺です。医王寺は、曹洞宗のお寺で永正11年(1514)に開創されました。山号は長篠山(ちょうじょうざん)、本尊は薬師如来です。下写真は医王寺本堂です。左側の石柱には「武田勝頼公本陣」と刻まれています。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17571019.jpg




医王寺の裏側が医王寺山で、ここに武田勝頼の軍勢が陣を敷いていました。ここに、物見台が復元されています。下写真は山麓から写した物見台です。手前下が医王寺本堂です。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17583193.jpg

下写真は直下から見上げた物見台です。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17571046.jpg

ここに至るまでは、医王寺の東側から登ると森林の中を登ることになります。下写真は麓近くのものですが、物見台近くになると急坂となり登るのが大変でした。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17571077.jpg

物見台から見ると長篠城方向が見えます。写真中央に薄く写っている新東名高速道路の手前が長篠城址です。医王寺山からは長篠城が一望できる位置であることがよくわかります。武田勝頼が医王寺に本陣を構えた理由がわかります。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17571067.jpg

 武田軍が長篠城を包囲攻撃している中、織田信長・徳川家康連合軍が518日設楽原に着陣しました。この報を受け、519日、医王寺で武田軍の軍議が開かれました。山県昌景・馬場信春・内藤昌豊など信玄以来の宿将は、織田信長・徳川家康連合軍との決戦を避けるよう主張しました。一方、武田勝頼や長坂釣閑斎光堅は敵に背を向けるのは恥辱だと賛成しなかったといいます。この軍議では撤退論と決戦論が戦わされました、勝頼は決戦を決断し、豊川を渡って設楽原に進出しました。


長篠城跡の北側、医王寺山の東側に大通寺山があります。このあたりには武田信豊、馬場信房、小山田昌行らの陣地がありました。この南麓にある大通寺は、応永18年(1411)の創立と伝えられる地蔵菩薩を本尊とする曹洞宗のお寺です。(下写真は庫裏と本堂です)

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17570929.jpg

大通寺の本堂裏には、盃井戸(または盃井)と呼ばれる泉があります。

医王寺での軍議の阿戸、武田軍の馬場信房・山県昌景・内藤昌豊・土屋昌次がこの泉を汲み、別れの水杯を交わしたと伝えられています。下写真が盃井戸です。左の石柱には「大通禅寺盃井」と刻まれています。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17570945.jpg

泉の脇には説明板が設置されていて次のように書かれています。

大通寺と盃井戸

達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。

天正3(1575)年の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_17570960.jpg

128日追記】

 医王寺の山門の脇に池があり弥陀池と呼ばれています。そこに生える葦は片葉だという伝説があります。(下写真は、山門脇にある片葉の葦の伝説を記した石碑です。弥陀池のほとりに建てられています。)

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_14263221.jpg

医王寺のホームページを見ると、長篠の戦いに出撃する前夜、武田勝頼の夢枕に葦の精が老人の姿となって現われ、戦を避けるようにと勧めたが、勝頼はこれを無礼とし太刀にて老人の腕を切り落としてしまい、翌朝、境内の弥陀池を見ると、茂っていた葦が全て片葉になっていたそうです。

それ以来弥陀池の葦は片葉のものが多くなったと伝えられています。しかし、現在の弥陀池に生える葦は両葉だそうです。下写真が弥陀池で、手前に葦が生えていました。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_14261850.jpg

医王寺の参道脇に「山県三郎兵衛息継ぎの井」という泉がありました。

長篠の戦いの際に、本陣に報告に来た山県昌景が、医王寺に入る前に一口飲んで、息を継いだことから、そう呼ばれているとのことです。

医王寺と大通寺〈長篠の戦い⑹〉(徳川家康ゆかりの地22)_c0187004_14263280.jpg


下地図中央が医王寺です。


下地図中央が大通寺です。






by wheatbaku | 2022-12-07 17:51 | 徳川家康ゆかりの地

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
以前の記事
2024年 10月
2024年 09月
2024年 07月
2024年 06月
2024年 05月
2024年 04月
2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 03月
2023年 02月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 11月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
ブログジャンル
歴史
日々の出来事