鳥居強右衛門の墓〈長篠の戦い⑺〉(徳川家康ゆかりの地23)
長篠城の攻防戦を語る際には欠くことのできない人物として、武田軍が包囲する長篠城を脱出し岡崎に救援の要請に走った鳥居強右衛門(すねえもん)があげられます。
救援要請の使命を無事果たして長篠城に戻ろうとしたところ、武田軍に見つかり磔に処せられました。そのため、長篠城址の対岸に鳥居強右衛門のお墓と磔の場所が残されています。
そこで、今日は新昌寺にある鳥居強右衛門のお墓と「鳥居強右衛門磔死之址」を紹介します。下写真は鳥居強右衛門のお墓全景です。背景の土手は新東名高速道路の土手です。
武田軍が長篠城を包囲したのが5月1日でしたが、長篠城内の兵粮が少なくなったため、岡崎にいる徳川家康に救援を求めることとなり、鳥居強右衛門が、その使者となりました。鳥居強右衛門は、5月14日の深夜、長篠城の崖を下り大野川の水中に潜り泳ぎくだり、雁峰山で脱出成功の合図の烽火をあげました。 鳥居強右衛門は、そこから岡崎まで走り抜け、翌16日に岡崎城に到着し、鳥居強右衛門は、徳川家康と織田信長に長篠城の窮状と救援をお願いしました。
徳川家康と織田信長は救援に向かう旨を伝え、鳥居強右衛門は、救援が来る旨を城内の兵にすぐに伝えるため長篠に戻り、城内へ入ろうとしました。しかし、武田軍の警備は厳重で武運拙く武田軍に見つかってしまいます。武田軍は、鳥居強右衛門に「救援はこない」と伝えれば命を助け、そのうえ武田家に仕えさせてやると言いました。鳥居強右衛門は、その申出に応じたふりをして、城の近くに向かいました。そこで、武田軍との約束を違え、「救援はくるので、もう少しがんばれ」と叫びました。これを聞いて長篠城に籠城している人たちは喜びの声を上げました。一方、激怒した武田軍は、鳥居強右衛門を、城方から見える場所で磔(はりつけ)に処してしまいました。
鳥居強右衛門が徳川家康と織田信長がいる岡崎城まで救援要請に行ったというお話は「鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂」(金子拓著)によれば、小瀬甫庵が書いた「甫庵信長記」と大久保彦左衛門が書いた「三河物語」の二つの史料にだけ書かれているそうです。
磔に処せられた鳥居強右衛門は長篠城址の対岸にある新昌寺に埋葬されました。
新昌寺は天文8年(1539)に長篠医王寺の住職により「喜船庵」として創建されました。「喜船庵」は万治3年(1660)に新昌寺と改められ、さらに寛政3年(1791)には興国山新昌寺に改められました。山号には「興国山」とは別に「鳥居山」というのもあるようです。鳥居強右衛門にちなんだのではないでしょうか。なお、新昌寺の最寄駅は「鳥居駅」といいますが、この駅名も鳥居強右衛門にちなむものだそうです。
鳥居強右衛門は、長篠の戦い当時「喜船庵」と呼ばれていた新昌寺に埋葬されましたが、慶長8年(1608)鳥居強右衛門の子信商の手によって作手の甘泉寺に改葬されました。その後、宝暦13年(1763)に有志の手によってお墓が再建されました。墓碑正面には「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年 三十六歳」と刻まれていて、墓碑右側には「わが君の命に替る玉の緒を などいとひけん 武士の道」と鳥居強右衛門の辞世の句が刻まれています。そして、大正9年(1920年)には墓域が拡張され、現在の形に整えられたそうです。下写真は墓碑拡大です。
新昌寺から徒歩で10分ほど歩いた豊川の南岸に「鳥居強右衛門礫死之址」と刻まれた大きな碑が立っています。(下写真)この碑も土地改良工事の影響で現在地に移転したという情報もあり、石碑のある場所で鳥居強右衛門が磔に処せられたわけではないようです。
石碑の隣には「長篠と設楽原を繋いだ鳥居強右衛門」と書かれた大きな説明板も設置されていました。(下写真)
鳥居強右衛門の壮絶な死に感動した武田家家臣の落合佐平次は、鳥居強右衛門が磔に処せられた姿を描かせ、それを自分の背旗(せばた:旗指物)としました。国道257号線沿いにある長篠城址史跡保存館の案内看板に描かれている鳥居強右衛門の絵は、落合佐平次の背旗の図柄です。(下写真)
なお、鳥居強右衛門および落合佐平次の背旗について「鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂」に詳しく書かれています。
下地図中央が鳥居強右衛門のお墓のある新昌寺です。
下地図中央が「鳥居強右衛門礫死之址」です。