鳶ヶ巣山砦〈長篠の戦い⑻〉(徳川家康ゆかりの地24)
今日は鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦について書きます。
武田軍は、長篠城を包囲して大野川を挟んだ乗本地区に五つの砦を築きました。北から君ヶ伏床(きみがふしど)砦、姥ヶ懐(うばがふところ)砦、鳶ヶ巣山砦、中山砦、久間山(ひさまやま)砦の5つです。これらは、乗本地区にあることから乗本五砦と呼ばれました。その中で中心となる砦が鳶ヶ巣山砦で、鳶ヶ巣山は、長篠城から直線距離で700メートルほどの距離であり、かつ高低差もあることから、長篠城を見下ろすことができ監視に適していました。下写真は長篠城址からみた鳶ヶ巣山です。本丸跡から見て目の前にある山という感じでした。
事前調査では鳶ヶ巣山砦へ行くのは大変だという情報がありました。しかし、ボランティアガイドの方にご案内いただいたので訪ねることができました。
乗本五砦に武田軍は、武田勝頼の叔父武田信実を総大将として次のように軍勢を配置しました。(「戦国ウォーク 長篠・設楽原の戦い」(黎明書房刊)より)
君ヶ伏床-和田業繁(なりしげ)
姥ヶ懐砦―三枝昌貞(守友)、三枝守義
鳶ヶ巣山砦―武田信実(たけだのぶざね)
中山砦―名和・飯尾・五味(浪人衆)
久間山砦―倉賀野・大戸主従、和気善兵衛
鳶ヶ巣山砦を守った総大将の武田信実は、武田信玄の弟、つまり武田勝頼の叔父です。甲斐国河窪を治め河窪姓を名のっていました。
天正3年(1575)5月18日の軍議で、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍と決戦をするということを決定し、設楽原に軍を進めますが、乗本五砦の軍勢は、そのままの長篠城包囲の態勢を維持しました。
一方、織田信長・徳川家康連合軍で、5月20日夜に行われた軍議で、酒井忠次は、鳶ヶ巣山砦への奇襲攻撃を提案します。しかし、織田信長は武田軍への情報漏れを恐れ、酒井忠次による鳶ヶ巣山砦奇襲の提案をその場では取り上げませんでした。しかし、その深夜、徳川家康と酒井忠次を呼び、提案通り鳶ヶ巣山砦を奇襲攻撃するよう命じました。命令を受けた酒井忠次は、徳川軍から弓・鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び出し、これに織田家の鉄砲隊500名と金森長近らの検使を加えた約2千名の織田方を併せて総勢約4千名の別働隊を組織しました。
酒井忠次に従った徳川家の武将は主に東三河の軍勢で、松平伊忠(深溝城主)、牧野康成(牛久保城主)、本多広孝(田原城主)らで、さらに奥平信昌の父奥平定能や野田城主菅沼定盈(さだみつ)は地元で地理に詳しいことから道案内を兼ねて別働隊に加わりました。
酒井忠次を大将とする別働隊は、5月20日戌刻(午後8時頃)に本陣を出発し豊川を渡河し、吉川(現新城市吉川)・松山峠等鳶ヶ巣山の南側を尾根伝いに進み、翌朝、辰刻(午前8時頃)に、鳶ヶ巣山砦はじめとした乗本五砦にようやく到着しました。
鳶ヶ巣山奇襲のための行軍は12時間におよぶものであり、当夜は新月であり、まさに闇夜の中の強行軍でした。
奇襲攻撃を受け武田軍は、油断していたため大混乱となりましたが、鳶ヶ巣山の武田信実らは頑強に戦い、2回奪われた砦を2回奪い返したものの、3回目の徳川方の攻撃に際には、武田信実も奮戦むなしく戦死し、ついに鳶ヶ巣山砦を徳川方が奪いました。
奇襲攻撃を受けた武田軍の被害は甚大で、総大将武田信実をはじめ三枝昌貞(武田二十四将の一人)・和田業繁(上野国和田城主)など有力な武将が亡くなっています。
鳶ヶ巣山砦などを強襲し陥落させた酒井忠次隊は、長篠城に籠城していた奥平信昌たちとともに長篠城を包囲していた武田軍を攻撃し、これを壊滅させました。
長篠城を包囲していた武田軍の壊滅により、設楽原に進出した武田軍は、前面だけでなく背後にも敵を受けることになりました。
このことが設楽原での武田軍と織田信長・徳川家康連合軍との決戦に大きな影響を与えたと言われています。
鳶ヶ巣山砦址には、説明板(下写真の右手)や「長篠之役鳶ヶ巣陣戦歿将士之墓」(写真中央)などが建てられています。
下写真は「長篠之役鳶ヶ巣陣戦歿将士之墓」と刻まれた石碑です。
下写真は鳶ヶ巣山砦址に建つ「鳶ヶ巣の戦い」の説明板で、次のように書かれています。
「鳶ヶ巣山の戦い 天正3年5月8日、武田勝頼は1万5千の大軍を以って長篠城を包囲した。その時乗本側に5つの砦を築き守兵1千を配して包囲の一環とした。君ヶ伏床には和田兵部、姥ヶ懐には三枝勘解由兄弟、鳶ヶ巣には主将武田兵庫頭信実、中山には名和無理之助並びに五味与惣兵衛、久間山には浪合民部等がこれにより堂々の陣を張っていた。20日の夜、徳川の臣酒井忠次は4千の兵と500丁の鉄砲隊を引き連れ、吉川の松山峠を越えひそかに5砦の背後に迫っていた。21日の払暁、酒井軍は鉄砲を合図に閧の声を挙げ一斉に攻め込んで来た。武田軍は狼狽しながらもよく防戦し、特に鳶ヶ巣では、壮烈な争奪戦を三度も繰り返したが、ついに衆寡敵せずして、信実以下ことごとくここに戦死を遂げたのである。」
また枯れた杉の大木が展示されていました。(下写真)
「この枯木は明治7年の台風によって倒れた杉の木の残骸である。倒れて後も暫く余命を保っていたが昭和12年頃遂に枯死してしまった。樹齢は不明であるが、300年以上はたっており、長篠合戦当時、既に生存していたものと考えられるところから『天正の杉』と呼ばれている。」