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織田信長本陣跡と徳川家康本陣跡〈長篠の戦い⑼〉(徳川家康ゆかりの地25)

織田信長本陣跡と徳川家康本陣跡〈長篠の戦い⑼〉(徳川家康ゆかりの地25


 私達が「長篠の戦い」と呼んでいる合戦について、地元を中心に最近は「長篠・設楽原の戦い」と呼ぶ人も多くなっています。それは、織田信長・徳川家康連合軍と武田軍の決戦は、長篠城から直線距離で西方3キロばかり離れた設楽原で行われたからです。長篠城の攻防戦に関する史跡の案内は前回で一区切りとさせていただき、今日からは設楽原に関する案内をしていこうと思います。今日は、織田信長や徳川家康の本陣がどこにあったのか書いていきます。


 武田勝頼が、天正3年(157551日から長篠城を包囲しました。そこで、、徳川家康は岐阜の織田信長に510日に救援要請を行っています。救援要請を受け、織田信長は早くも513日には岐阜を出発し514日は岡崎に到着しています。ここで、鳥居強右衛門から長篠城のひっ迫した状況の報告を受けています。そして、16日牛久保城(現在の豊川市牛久保)、17日野田(現在の新城市野田)と陣を進め、18日には設楽原の極楽寺山に陣を構えました。『信長公記』(しんちょうこうき)には「志多羅(したら)之郷極楽寺山に御陣」と記されています。

 極楽寺山は、そこに極楽寺というお寺があったためつけられた名称のようですが、長篠の戦い以前に極楽寺は焼失しており、その後も寺院は再建されなかったようです。私が訪ねた時には極楽寺山の織田信長の本陣跡には繁茂した草の中に説明板が建っているだけでした。(下写真)

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織田信長は、その後本陣を茶臼山に移しています。本陣を移動した時期ははっきりしていないようです。織田信長の茶臼山の本陣は、現在は「織田信長戦地本陣跡」と呼ばれていて、新東名高速道路の長篠設楽原PAから歩いて行くこともできます。設楽原の決戦場からは少し距離があるので私は車で長篠設楽原PAまで行き、そこから歩いていきました。下写真は、長篠設楽原PAから織田信長の本陣跡に登る途中にある看板です。

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 階段を登りきると茶臼山稲荷神社が鎮座しています。その前に新城市教育委員会が建てた説明板があります。

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ここで、織田信長は「きつねなく 声もうれしく きこゆなり 松風清き 茶臼山かね」という和歌を詠んだと言われていて、その歌碑が建っています。(下写真)

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この歌に「きつね」が出てきますが、本陣には茶臼山稲荷神社が鎮座していることと関係していると思います。(下写真が茶臼山稲荷神社です)

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徳川家康も、天正3518日に設楽原に着陣し、極楽寺山より東方の弾正山に陣を構えています。弾正山は、現在の東郷中学校の脇の丘に弾正山古墳と呼ばれる古墳があり、この付近をいいます。徳川家康の本陣は「信長公記」では「高松山」と書かれていますが、高松山と弾正山は同じ所を指しています。下写真は、弾正山古墳の案内板と「設楽原古戦場いろはかるた」の看板です。

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徳川家康の本陣跡を示すホームページなどでは八剱神社(やつるぎじんじゃ)が鎮座している場所と説明しているものが多いのですが、「設楽原をまもる会」が設置した「家康本陣地」と刻まれた石碑が神社から少し離れた山林の中に設置されています。私は、ボランティアガイドの方の案内で東郷中学校東側にある「家康物見塚」から山林の中にある「家康本陣地」石碑の場所に行きました。下写真は「家康物見塚」の石柱です。

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物見塚は、決戦が行われた連吾川からはわずか300mほどの距離です。戦場の真っ只中といった感じの場所です。下写真は物見塚から見た連吾川方向です。遠くに見える林との間にある水田の真ん中を連吾川が流れています。物見塚からみると決戦場はまさに目の前という感じに見えます。

徳川家康の本陣は戦場に非常に近い場所に設けられました。一方、織田信長が設けた極楽寺山は、弾正山より西方にあり、武田軍からは弾正山が邪魔をして見通すことができないところにあります。今回の戦いは三河での戦いで、中心はあくまでも徳川家康で、織田信長は救援する立場でした。そのため、徳川家康は戦いの前面に立って戦う決意を示すこともあって、その本陣が決戦場に非常に近い場所に設けられたのだと思います。

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下写真が「設楽原をまもる会」が設置した「家康本陣地」石碑ですが、山林の中を通っていくので、ガイドの人がいないとここまで到着するのは難しいと思います。ここまで行く場合にはボランティアガイドをお願いしたほうがよいと思います。

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【徳川信康、織田信忠、織田信雄の本陣跡】

長篠の戦いに、徳川家康の嫡男信康、織田信長の嫡男信忠、次男信雄も参陣していて、それぞれ、本陣を構えていました。それらの本陣跡も訪ねていますので、ご案内します。

〈徳川信康の本陣地〉

徳川家康の嫡男信康も長篠の戦いに16歳で参陣しています。徳川信康が本陣を構えたのが松尾山でした。松尾山は徳川家康の本陣の後方で、織田信長が本陣を置いた茶臼山の南側となります。松尾神社の石段脇に看板と説明板が設置されていました。

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〈織田信忠本陣地〉

織田信長の嫡男信忠は18歳で参陣しています。織田信忠の本陣は現在の野辺神社にありました。織田信長の本陣のあった茶臼山の南側で徳川信康の本陣の西にあります。連吾川からみる徳川信康の背後となります。野辺神社の石段途中右手に看板と説明板がありました。

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〈織田信雄本陣地〉

織田信長の次男で織田信雄は長篠の戦いに17歳で参陣しました。信雄は現在介護老人保健施設「サマリヤの丘」が建っている高台に本陣を構えました。施設の土手に石柱が建っているとのことでしたが、繁茂する草で石柱は確認できませんでした。下写真は織田信忠の本陣跡地である野辺神社の石段前から撮った「サマリヤの丘」です。

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【12月20日追記】

 「信長公記」には、織田信長と徳川家康の陣についても書いてありますので、追記しておきます。

 織田信長・徳川家康連合軍は、長篠城の救援に向かったにもかかわらず、長篠城近くに陣を構えず、かなり手前の設楽原に陣を構えました。これについて「信長公記」は、「志多羅(設楽のこと)の郷は一段地形(ちぎょう)くぼき所に候。敵かたへ見えざるように段々に御人数三万ばかり立置かせられ、」と書いてあります。設楽原は窪地で、武田軍から見て、全体の人数を把握されにくいため、織田信長は設楽原に陣を構えたようです。また、続いて「先陣は国衆(地元も者)の事に候の間、家康ころみつ坂の上、高松山に陣を懸け(後略)」と書いてあります。当時は、戦いが行なわれる場所の地元の者が先陣を勤めるという慣例があり、そのため、徳川家康にとって長篠は地元であるので、連吾川近くの最前線に本陣を構えたようです。



下地図中央が織田信長戦地本陣跡です。


下地図中央が徳川家康本陣跡です。






by wheatbaku | 2022-12-16 14:44 | 徳川家康ゆかりの地

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