家康の大高城への兵粮入れ(「どうする家康」1)
いよいよ「どうする家康」が始まりました。従来の徳川家康像とは違う徳川家康として描かれそうで、これからの展開が楽しみです。従来の徳川家康は、江戸時代には「神君徳川家康公」として捉えられ、明治以降は「たぬきおやじ」というマイナーなイメージで語られ、私たちも、それらのイメージを強く抱いているように思います。しかし、最近の研究で、従来、通説といわれていた考えを否定する説も出されるなど新たな家康像が主張されてきたりしています。そうした研究成果が「どうする家康」の中にどのように織り込まれてくるのかも個人的に楽しみです。しかし、「どうする家康」はあくまでもドラマですので、そうした史実とは別のエンターメインドラマとしての側面もあるように第一回をみて感じました。そうした意味でも今後の展開が楽しみです。

第一回では、いろいろなことが描かれていましたが、今回のタイトルは「どうする桶狭間」でしたので、まず桶狭間の戦いについて書いてみます。桶狭間の戦いは、織田信長が上洛をめざす今川義元を討ち取り、織田信長の名を一気に天下に知らしめた戦いとされ、織田信長側から描かれることが多いのですが、当時、徳川家康は今川方に属していて、「どうする家康」も今川方から描かれていますので、桶狭間の戦いに至る今川義元と徳川家康の動きを「今川義元」(小和田哲男著)に基づいて書いてみます。
今川義元は、永禄3年5月12日に駿府を出陣しています。この今川義元の出陣に先立ち、井伊直盛を大将とする先鋒軍が出陣しています。井伊直盛は、遠江国井伊谷城城主で、2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公井伊直虎の父です。 徳川家康は、この先鋒軍の一員として出陣していました。
今川義元は、その日、藤枝に泊まりました。ついで13日には掛川城まで進みました。14日には引馬城まで進みました。15日にはいよよ三河国に入り吉田城に宿泊し、16日に岡崎城に到着した。翌日、今川義元の本隊は池鯉鮒に到着しましたが、先鋒軍は、尾張国に入っていました。翌18日、今川義元本隊も終りに入り、その日には沓掛城に入りました。そして、この日、沓掛城で軍議が行なわれ、徳川家康は、大高城への兵粮入れを命じられました。「どうする家康」では、駿府にいる時に命じられたことになっていましたが、「今川義元」(小和田哲男著)では沓掛城で命じられた可能性が高いとしています。下写真大高城跡の石柱

当時、大高城を守っていたのは今川家武将の鵜殿長照でしたが、織田信長は、鳴海城との連携を断ち大高城を包囲するように北東側に鷲津砦、東側に丸根砦、さらに南側には祥子治などの砦を構築していました。この砦群のため、大高城の兵粮が少なくなっていたため、兵粮を補充する必要があったのです。そこで、その重要な任務を徳川家康が命じられたのでした。
沓掛城から大高城へ向かう際には、丸根砦が大きな障害となります。そこで、徳川家康は丸根砦の攻撃を命じられます。「どうする家康」では、大高城への兵糧入れの前段階として攻撃していますが、「今川義元」(小和田哲男著)では、兵糧入れは18日の夜間で、丸根砦攻撃は5月19日の早朝と書いてあります。そして、徳川家康は見事に丸根砦を攻略しています。そして、丸根砦攻略後、徳川家康は、大高城で今川義元がやってくるのを待っていましたが、なかなか今川義元がやってこないというのは「どうする家康」で描かれていた通りのようです。下写真丸根砦跡の石柱

大高城は、現在は、海岸から遥か離れた住宅街の中に残されていますが、桶狭間の戦いが行なわれた頃には、「どうする家康」で描かれていたように海岸線が大高城の近くまで迫っていました。そうしたことを踏まえて、徳川家康の大高城への兵粮入れは陸路でなく海路を利用したものだという注目すべき新説を服部が「桶狭間合戦考」で述べています。この新説に対する研究者の批判などどがどうなるかも注目されます。
大高城は昨秋に訪ねていて、このブログでも訪問記を書いていますので、ご覧ください。
また丸根砦も昨秋に訪ねていて、このブログでも訪問記を書いていますので、ご覧ください
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