徳川家康の正室瀬名(「どうする家康」3)
今日は、徳川家康の正室瀬名について書きます。以前の瀬名(後の築山殿)は悪女として描かれることが多かったように思います。「おんな城主直虎」で菜々緒さんが演じて悪女のイメージは大幅に薄れたように思います。「どうする家康」では有村架純さんが演じることから、従来の悪女のイメージとは違うイメージで描かれるのではないかと予測していますが、どんな「瀬名・築山殿」として描かれるのでしょうか。
さて、瀬名は、以前は今川義元の姪だという説もありましたが近年ではそうした説は否定されているようです。そこで、最初に、瀬名の父と母について書いてみます。
瀬名の父は関口氏純(親永、義広とも)といい、今川家の一族であり重臣でした。関口氏は、元々、今川氏の初代国氏の次男常氏を初代とする家柄で、今川家の一族でした。
ほとんどの大名家では一族は宗家と同じ苗字を名乗っていましたが、今川家では一族でも今川姓は名乗りませんでした。それには次のような事情があります。
室町幕府第6代将軍足利義教の時代に活躍した今川範忠の時代、今川範忠の幕府に対する忠誠や功績により、将軍足利義教から今川姓を範忠の歴代嫡子のみに許して、嫡子以外の分家が今川姓使用を禁じるという恩賞が与えられました。これを「天下一苗字」(天下に一つだけの苗字という意味だと思います)と言います。この恩賞により、これ以降、範忠の直系子孫だけが今川姓を名のることが許されました。これにより今川家の分家はすべて今川という姓を変更せざるをえなくなりました。従って、今川家では、一族であっても今川姓を名乗っていません。
南北朝時代に九州探題として活躍した今川了俊も遠江国を拝領し遠江今川氏と言われていましたが、「天下一苗字」により、今川氏から堀越氏に苗字を変えています。
今川家一門でありながら、別の苗字を名乗っていた一族は、堀越氏のほかに瀬名氏や関口氏などがありました。瀬名の父関口氏純は、今川家一族である関口氏の当主でした。関口氏は、鎌倉時代末期の今川経国を初代とする今川家一族でしたが、本拠地の三河国宝飯郡関口から苗字を「関口」とした家柄です。
関口氏純は、今川一門の瀬名氏貞の次男として生まれた後、関口家の養子となり関口家を継ぎました。瀬名氏は、今川了俊から始まる遠江今川氏(堀越氏)の6代堀越貞延の長男瀬名一秀に始まります。瀬名一秀は二俣城を守っていましたが、今川義元の父今川氏親が幼いころから氏親を補佐し、その功によって瀬名姓を与えられ、これ以降「瀬名」となりました。
このように関口氏純は、今川家一門の瀬名家に生まれた後、同じく今川家一門の関口家の養子となり、当主になったのでした。
関口氏純の妻の素性ははっきりしません。今川義元の姪との説もありましたが、関口氏純の兄の瀬名氏俊(貞綱とも)の妻が今川義元の姪であったため、「兄の婚姻関係との混同とみなされ、築山殿と今川義元とのあいだには、直接の姻戚関係はなく、義元の姉婿の姪という関係であった」(「家康の正妻築山殿」より)ようです。
また、関口氏純の妻が井伊家の出身という説もあります。これは井伊年譜の中に井伊直平の娘について「初め、今川義元の側室と為す。後、義元、妹と為し、関口刑部大輔源親永(関口氏純のこと)に嫁す。一女を生む。乃ち、義元、神祖(家康のこと)へ媒嫁(結婚の仲立ち)を為す。筑山御前、是也(これなり)」という説明があることによります。この説に基づいて「おんな城主直虎」では、直虎(直平の孫)と瀬名は従姉妹として描かれていました。
さて、瀬名についてですが、最近、「家康の正妻築山殿」(黒田基樹著)という本が刊行され、瀬名についてかなり詳しく書かれています。前述の瀬名の父母についても解説してあります。

黒田基樹氏によれば、瀬名の素性は正確なところは全くわからないそうです。幼い頃に何と呼ばれていたのかもわかりませんしいつ生まれたかもわからないそうです。
まず呼び名ですが、「どうする家康」でも瀬名と呼ばれていますし、「おんな城主直虎」でも瀬名と呼ばれていました。しかし、この瀬名の呼び名が現れるのは、江戸時代中期以降で、当時の史料では、呼び名がハッキリとはわからないそうです。
また、よく築山殿は家康より年上の「姉さん女房」だと言われますが、何年に生まれたのかもわかりませんので、年上であったのかも確かなところはわかりません。「家康の正妻築山殿」(黒田基樹著)によれば、徳川家康より2歳年上から同じ年の範囲に入るだろうということですので、2歳年上の可能性があるとともに同い年であった可能性もあるようです。
徳川家康と瀬名との結婚がいつであったかも、当時の史料が残されていないので、正確なところはわからず、弘治2年(1556)説と弘治3年(1557)説の二つがあるそうです。「家康の正妻築山殿」によれば弘治2年説の可能性が高く、そうであれば、徳川家康が元服した翌年に結婚したことになり、家康15歳、瀬名15歳~17歳となります。
家康の嫡男信康の生まれたのは、永禄2年(1559)3月とされています。弘治2年(1556)に二人が結婚したとしたら、結婚後3年で嫡子が誕生したことになります。御世継ぎ信康の誕生は、徳川家康にとっても三河家臣団にとっても大変喜ばしい出来事だったと思います。「どうする家康」での家臣たちの喜びようも当然のことになります。
「どうする家康」で、徳川家康が出陣する際に、瀬名は臨月の状態でしたが、この時にみごもっていたのが亀姫です。亀姫が生まれた年月日についても諸説がありますが、多くは永禄3年(1560)と推定されています。生まれた月日まで確定できないようですが、桶狭間の戦いは永禄3年5月19日で、徳川家康は5月10日に駿府を出陣していますので、出陣の際に、瀬名が臨月であったということは十分に考えられます。

