今川義元の塗輿(ぬりごし)(「どうする家康」4)
今日は、今川義元が乗っていた塗輿(ぬりごし)について書いていきます。
「どうする家康」第1回で、今川義元が塗輿(ぬりごし)に乗って、桶狭間に向かう場面がありました。

今川義元が塗輿に乗った桶狭間の戦いに臨んだのは事実で、「信長公記」に次のように書かれています。
「空晴るを御覧じ、信長鑓(やり)をおっ取って大音声を上げて、すわかかれかかれと仰せれ、黒煙立て掛かるを見て、水をまくるか如く後へくわっと崩れたり、弓・鑓(やり)・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨ててつれ逃けり」
(現代語訳「空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて『それ、掛かれ、掛かれ』と叫ぶ。黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水を撤くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟(のぼり)・差し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。」←「地図と読む現代語訳信長公記」中川太古訳より)
戦場でも塗輿に乗っていたことで、今川義元は公家好みの軟弱大名だというイメージを抱くことになり、今でもそうしたイメージを持っている人が多いかもしれません。
しかし、塗輿に乗ったのは今川義元が公家好みであったからではないようです。
大石泰史氏は、「今川氏年表」収録の「『塗輿』から桶狭間合戦を読み解く」や「今川氏滅亡」の中で、凡そ次のように主張しています。

「中世における『乗輿(じょうよ)の制』は、許可された国持大名のみ輿の使用が許されていた。永禄3年の桶狭間合戦より前には今川氏は乗輿は許されていなかったが、桶狭間の戦い段階で今川氏は初めてそれが許された。それにより乗輿が許可されていた遠江・尾張守護であった斯波氏と同等のレベルになった。そのことを視覚的に多くの人々に認知させようとした。しかも、斯波氏が乗輿していたころからは40年余り経過しており、遠江・三河で乗輿した人物をほとんどみたことがなかったと考えられるため、その行軍の視覚的効果は大きく、当時の人々は非常に驚いたことと思われる」とのことです。つまり塗輿に乗れるということは極一部の人に許された特権であって、滅多に目にすることができなかった光景だったようです。
そのうえで、大石氏は、「塗輿に乗って行軍すること」は、遠江・尾張守護であった斯波氏を意識した遠江・尾張の人々への「軍事的パフォーマンス」と主張しています。織田信長は尾張国守護であった斯波氏の守護代織田大和守家の家老の家柄の出身であることから、当時はとても塗輿に乗れる家柄ではありませんでした。そうしたことから、家格の違い・国力の違いなどを示そうとした行動だったと主張しているように思います。
こうした大石泰史の主張について柴裕之氏も「青年家康」の中で次のように書いていて、大石泰史の主張に賛意を示しています。

「乗輿は、室町幕府からの認可を必要とした特権で、それを得ていなければ輿に乗ることは許されなかった。したがって、大石泰史氏かいわれるように、室町幕府から認められた特権を活用した、『軍事的パフォーマンス』としてみるべきだろう。義元は、高貴な人物のみが許された乗輿での進軍という演出で、軍事的な緊張状況が高まっていた鳴海・大高両領の確保に自らが臨み、従属国衆領も含めた地域統合圏としての今川領国全体の『平和』維持に努めている姿を世間に示したものであったのだ。」
以上から考えると。今川義元が塗輿に乗って行軍したのは、今川義元個人の好みではなく、塗輿に乗った高貴な人物が行軍する姿を見たことのなかった遠江・三河の人々に今川氏の地位や実力・勢いを誇示し、平和を維持するためであったということのようです。今川義元は決して軟弱大名ではなかったようです。

