今川氏真が援軍を送れなかった理由(「どうする家康」13)
桶狭間の戦いの後も今川方にたって織田方と戦っていた徳川家康(当時は松平元康)が盛んに今川氏真に援軍の要請をしているにもかかわらず、なかなか援軍が送ってこないため、松平家の家臣たちがイライラする場面がありました。実は、今川氏真は三河に援軍を送りたくても送れない事情がありました。今日は、なぜ氏真が援軍をおくれなかったのか、その理由・事情を説明します。
今川氏真が援軍を送れなかったのは、三河から遠く離れた関東の戦国事情がからんでいました。
「青年家康」(柴裕之著)にも「岡崎に帰還を果たした元康は、今川氏の承認を得たうえで、自ら岡崎領の保全と支配に取り掛かる。しかし、西三河の各地にも不安定な状況が蔓延するなか、義元後継の今川氏真は越後の長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻に対する相模北条・甲斐武田両氏との共闘に追われ、積極的な対応を取れずにいた。このため、西三河の諸勢力は今川氏の政治的・軍事的な保護を得られない状況に陥った。」(p186)と書いてあります。この事情について説明していきます。
この頃、関東では、小田原を拠点とした北条氏康は子供の氏政に家督を譲ったあとも実権を握り、関東制覇をめざして着々と関東の諸豪族を攻略していました。
北条氏に攻め立てられていた安房の里見氏、常陸の佐竹氏などは、北条氏の攻勢に対抗するため、越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)に関東への出兵要請をしました。これより先の永禄2年(1559)上杉謙信は上洛し将軍足利義輝から北条氏から関東支配を回復するため関東管領上杉憲政を支援するよう要請され、関東出兵の大義名分を得ていました。そこで、里見氏や佐竹氏などからの出兵要請を受けた上杉謙信は、永禄3年8月、ついに上杉憲政を擁して越後を出立し関東に出撃しました。
上杉謙信の関東出兵(越山)の報を聞くと北条氏の攻勢に苦しんでいた関東の諸勢力は一斉に北条方に反攻を始め、さらに従来北条方であった関東諸将も上杉方になびいていきました。こうした反北条勢力を引き連れて、永禄4年2月、上杉謙信は小田原城を攻めるため上野国から南下を開始します。そして、3月に10万を超えるともいわれる大軍で小田原城を包囲しました。下写真は現在の小田原城天守閣です。
こうした上杉謙信の侵攻を受けて、北条氏は、甲斐の武田氏と駿河の今川氏に援軍の派遣要請をします。いうまでもなく、甲斐の武田氏・相模の北条氏・駿河の今川氏は、俗に「甲相駿同盟」と呼ばれる同盟を結んでいました。そのため、今川氏と武田氏に援軍派遣要請をしたのでした。これを受けて、これまでも上杉謙信と戦ってきた武田信玄は、当然、援軍要請応じて、永禄4年3月、郡内の吉田城まで出撃しています。
そして、今川氏真ですが、今川氏真の正室は北条氏康の娘早川殿です。つまり北条氏康は岳父ということになります。正室の実家からの援軍要請ですので、これには何をおいても応えないわけには行きません。援軍要請に応えて、今川氏真も、永禄4年正月、南下する上杉軍を迎撃する拠点である武蔵国川越城に援軍を派遣しています。駿府から川越までかなりの距離ですが、遠いなんて言っていられない情勢だったのでしょう。さらに3月には今川氏真も出陣する予定だと北条氏家臣あての手紙に書いていたようです。(ただ、実際の「出馬はなかっようです。)
今川氏真は、桶狭間の戦い直後の駿遠国内の体制立て直しが求められているうえ、北条氏からの援軍要請に応える必要があっため、松平家からの援軍要請にたやすく応じる余裕はなかったようです。
このように援軍を送れない事態が続けば、桶狭間の戦い以後も今川方にたっていた徳川家康も、いつまでも織田信長に抵抗していくわけにはいきません。ついに徳川家康が織田信長と和睦を決断することになります。それが永禄4年2月頃のことです。そして、今川家から自立していくことなります。
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