徳川家康、清州城を訪ねる。(「どうする家康」16)
「どうする家康」第4回で、徳川家康(当時は松平元康)は、清州で織田信長に面談し、織田家と徳川家の同盟を盟約しました。
徳川家康と織田信長が同盟を結んだことは、両者とも大きなメリットがありました。まず徳川家康としては、今まで、祖父の清康・父の広忠そして家康と三代にわたった織田家との戦いがなくなり、三河の統一に力を注ぐことができるようになりました。
一方、織田信長は既に尾張を統一して美濃に進出して斎藤家と抗戦中でした。そこで、徳川家康と同盟することにより、その東にある今川家からの脅威を防ぐことになり、美濃の征服に専念できるようになりました。下写真は桶狭間古戦場公園の織田信長の銅像です。

徳川家と織田家の同盟は、織田信長が本能寺で暗殺されるまで続いた強固な同盟でした。戦国時代は数多くの同盟が結ばれましたが、これほどまで長く継続した同盟は非常に珍しいと言われています。
『定本徳川家康』で本多隆成先生は、「こうして、元康と信長との同盟がなった。西三河を早急に平定し、引き続き東三河をも制圧しようとする元康と、美濃の斎藤氏への攻勢を強めようとする信長と、両者の思惑か一致したことによる領土協定の締結であった。そして、この両者の同盟関係は、変転きわまりない戦国期の同盟としては珍しく揺らぐことなく、信長か本能寺で討たれるまで続いたのであった。」と書いています。
ところで、「どうする家康」で描かれていたように徳川家康が清州城にいって織田信長に面会した話は従来ひろく信じられていました。しかし、最近は、この話は否定されているようです。
本多隆成先生は『定本徳川家康』で次のように書いています。
「これまでの通説では、永禄五年正月に元康は清須城に赴き、信長と会見して盟約を結んだといわれてきた。平野氏はこれを真っ向から否定されたが、この点については筆者も同意見である。
史料的な問題として、第一に、『信長公記』『三河物語』『松平記』などに、この事実がいっさい記されていないこと、第二に、元康に供奉して清須に赴いたとされる武将たちの家譜類にも、そのような記載がみられないことである。もし、清須城での会見というような重大な出来事があったとすれば、そのような事態を生ずることはなかったであろう。また、当時元康が置かれていた状況は、先に述べたように今川方と東三河各地で激戦を展開しており、岡崎城を離れることは難しかったであろう。」
さらに、黒田基樹氏は、『徳川家康の正室築山殿』の中で、徳川家康が清州城に行ったことは事実でない説があることを述べた後、戦国大名が相手方の本拠を訪問するということは、当時、考えられないと次のように述べています。
「そもそも戦国大名・国衆の当主が、相手方の本拠を訪問するということ自体、婚姻にともなう婿入り訪問・舅入りの訪問以外にはほとんど考えがたい。いずれも独立国家の国王の立場にあり、相手方の本拠に赴くことは、従属・降伏を意味してしまうからである。
もし会談の必要があれば、それは互いの領国の境目でおこなわれた。天正14年(1586)の徳川家康と北条氏政の会談は、畯河・伊豆国境でおこなわれたし、織田信長と美濃斎藤道三の会談も、尾張・美濃国境地域でおこなわれた。したがってこの時点で、元康が信長の本拠に赴くことはありえない。もしそれがおこなわれたとしたら、元康が信長に従属し、服属儀礼として参府したことになる。しかし、この段階で元康は信長に従属する関係をとったとみることはできないから、この所伝は疑ってよい。」(p98)
※この黒田先生の「国のトップが相手の本拠に行くようなこと滅多にない」という説明は非常に納得できる説明だと私は思いました。以前から、織田信長が斎藤道三と会談したのが稲葉山城でなく、現在の一宮市の富田の聖徳寺であったことを疑問に思っていましたが、黒田先生の説明で納得できました。
このように見てくると、研究者の間では、徳川家康が清州城を訪問したという話は史実としては否定されてきているようです。しかしながら、「どうする家康」はあくまでもドラマですので、従来の通説のように織田信長との面会があったほうが今後のストーリーを盛り上げるために必要なことだったのではないでしょうか。そして、今回のストーリーはドラマとしておもしろい内容だったのでないかと思います。

