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岡崎城およびその歴史《岡崎⑴》(徳川家康ゆかりの地35)

岡崎城およびその歴史《岡崎⑴》(徳川家康ゆかりの地35

 1月末、岡崎・浜松・静岡を3日間旅行して徳川家康に関連するゆかりの地を訪ねてきました。そこで順にこのブログで書いていきます。最初は岡崎城について書いてみます。

 岡崎城は、名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩16分のところにあります。現在は岡崎公園となっていて、天守閣も復元されています。天守閣は昭和34年に復元されたもので、35階の鉄筋コンクリート造りです。下写真は天守閣入口手前で写した写真です。

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天守閣の各階には資料が展示されていて、最上階は展望台となっています。下写真は城内に展示されていた岡崎城の城郭模型です。

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下写真は最上階からの展望です。東岡崎駅方向を撮ってあります。
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《岡崎城の歴史》 徳川家康が生まれたのが岡崎城です。岡崎市のホームページでも「家康公生誕の城、岡崎城」として宣伝しています。確かにその通りで、徳川家康が生まれたのは現在地にある岡崎城です。しかし、当初の岡崎城は現在地に築かれのではなく、また当初の岡崎城を築いたのも松平家ではありません。そこで、最初に岡崎城の歴史について書いておきます。

 岡崎城を築いたのは、西郷頼嗣(よりつぐ)という武将だと考えられています。三河に土着した西郷氏は肥前菊池氏の一族の西郷氏出身で、足利尊氏の武将として九州でも活躍した仁木義長が京都に戻る際に、仁木義長に従って東上しました。そして、仁木義長が三河守護に任ぜられるとその守護代となりました。そして、西郷頼嗣は、現在の東岡崎駅あたりの明大寺(みょうだいじ)に城を築きました。これが当初の岡崎城です。

 この城の北側の守りを強化するために、現在の岡崎城の場所に砦を築きました。その場所は、北から流れる矢作川と東から流れる乙川(菅生川)の合流地点で、龍頭山と呼ばれる小高い丘でした。この時の砦は現在の本丸程度だったと考えられています。現在岡崎城の本丸の北側に清海堀という内堀がありますが、この堀は、当初の砦時代の外堀がこの清海堀だといわれています。西郷頼嗣は、出家して清海入道と名乗りましたので、その清海にちなんで堀の名前がつけられています。

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 この西郷頼嗣を攻撃したのが徳川家康の先祖で松平家三代の松平信光です。敗れた西郷頼嗣は、信光の子供光重を婿として受け入れ、松平光重は岡崎城主となりました。この岡崎城を拠点とした松平氏は岡崎松平氏と呼ばれました。

 岡崎松平氏は、松平光重の子信重の時代に、徳川家康の祖父である松平清康(安城を拠点としていたため安城松平氏と呼ばれていました)により攻撃され敗北しました。そして、岡崎城を退去して大草(愛知県幸田町)に拠点を移し、それ以降大草松平氏と呼ばれるようになりました。

 岡崎松平氏との抗争に勝利した松平清康は本拠を安城城から岡崎城に移しました。しかし、当時の岡崎城があったのは現在地でなく、明大寺でした。明大寺は軍事的には要害の地ではなく、また家臣の屋敷を建築する平坦地が少ないことなどから、松平清康は、菅生川(乙川)の北側の龍頭山に城を築きました。ここは西郷頼嗣が築いた砦があった場所ですが、十分活用されていなかったものを改修あるいは拡張して本格的な城としました。これが現在の岡崎城の礎となっています。下写真は、清海堀付近の撮影スポットから写した天守閣です。

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 徳川家康は、岡崎城で誕生しました。天文11年(15421226日とされています。そのため、岡崎城には、「東照公産湯の井戸」「東照公えな塚」という徳川家康誕生に関係する史跡が残されています。

「東照公産湯の井戸」は徳川家康の産湯に、この井戸の水が用いられたと言われている井戸です。(下写真)

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「東照公えな塚」は、徳川家康のえな(へその緒・胎盤)を埋めたと伝えられる塚です。(下写真)

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 公園内には、いろいろ像などが展示されていますので、順に紹介します。

石像「しかみ像」 下写真は有名な「しかみ像」です。

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 俗に「しかみ像」は徳川家康が三方ヶ原の戦いで無理な戦いを挑み、負け戦となったことから、自戒の念を忘れることのないように描かせたものだと伝えられていました。しかし、最近、この説は、原史彦氏の研究により否定されました。そうした研究を踏まえ、岡崎市は像の説明文を再検討すると新聞報道されていましたが、「しかみ像」の説明文は、修正した形跡はありませんでした。しかし、ホームページには「世に云うしかみ像『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館蔵)は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となって多くの家臣を失った家康公が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられています。しかし、この逸話は近年の研究により、近代以降の創作話であることが明らかとなった。」と書いてあり、最新の研究成果を加味したコメントとなっていました。

「徳川家康公像」 公園内には、徳川家康の像が二つありますが、この銅像は、昭和40年(1965)の「家康公350年祭」を記念して建てたものだそうです。

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「松平元康像」 公園内にある二つの徳川家康の像のうち、この像は「松平元康像」と名づけられていて、平成4年(1992)に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として、450年祭実行委員会が設置したものです。この像は、若き徳川家康(当時は松平元康)が日光東照宮の方角を向いている姿を描いたものだそうです。

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「本多平八郎忠勝公像」 公園内には、本多忠勝の像もあります。岡崎藩は代々譜代の名門が藩主となっていますが、明和6年(1769)本多忠勝の子孫である本多忠粛(ただとし)が入封し明治2年(1869)に本多忠直が版籍奉還するまでの100年間本多家が岡崎藩主でした。つまり、岡崎の最後のお殿様が本多家でした。そこで、本多家の藩祖である本多忠勝の銅像が岡崎城内に設置されているのだろうと私は推測しています。

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公園内にはこんなものもありました。「家康公・竹千代像ベンチ」

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最後に天守閣の脇に「龍城(たつき)神社」がありますのでこの紹介しておきます。 この神社の名前「龍城(たつき)」は、岡崎城が築造された場所は「龍頭山」とよばれ、岡崎城の別名「龍城(りゅうじょう)」と呼ばれたことに関係していると思われます。

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公園内には、以前「三河武士の館」という資料館があり、充実した展示物があり、結構勉強になりましたが、現在は、それが大河ドラマ館となっていました。時間がないので入館はあきらめました。

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by wheatbaku | 2023-02-02 12:22 | 徳川家康ゆかりの地

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