大樹寺《岡崎⑵》(徳川家康ゆかりの地36)
大樹寺は、東岡崎駅から直線距離で2キロあります。徒歩では難しいので、バスを利用するかタクシーを利用してください。もしくは、愛知環状鉄道線大門駅から徒歩17分です。
大樹寺は、松平家4代松平親忠が文明7年(1475)に勢誉愚底を開山として創建した浄土宗の寺院です。
一時衰退しましたが、天文4年(1535)に7代松平清康により伽藍が再興され、多宝塔はその時に建立されたものです。そして、江戸時代になって、3代将軍徳川家光が、寛永13年(1636)から大造営を行いました。三門、総門、鐘楼などはその時に建立されたものです。しかし、幕末の安政2年(1855)に火災により本堂、庫裏など主要な建物が焼失しましたが、2年後の安政4年(1857)には本堂、大方丈、小方丈、庫裏などが再建されています。
大樹寺で、まず目に入るのが大きな三門です。この三門は、寛永13年(1636)から徳川家光により実施された大造営の中で建立されたものです。寛永18年(1641)の棟札が残されているようです。この門は本格的な禅宗様式の門で、規模は桁行10.6m、梁間6.1mあります。浄土宗寺院では、寺格の高い寺院にこの種の門があり、知恩院三門、増上寺三門と同じ造りです。

三門から総門(現在は大樹寺小学校南門)・岡崎城天守閣が一直線になっている景色は「ビスタライン」と呼ばれています。「ビスタ」は「眺望・展望」を意味しています。実際に、覗いてみると、確かに三門・総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して岡崎城天守閣を見ることができます。下写真は三門から総門を写した写真ですが、総門の真ん中に薄く岡崎城の天守閣が写っています。

これは徳川家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来しているそうです。また、歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼したとも伝えられているようです。
三門の脇に鐘楼がありますが、これも徳川家光の命による寛永13年からの大造営で建立されたものです。

三門の正面に本堂があります。大樹寺の伽藍は、前述の通り三代将軍家光によって整えられましたが、安政2(1855)年に三門、総門、裏門、鐘楼、開山堂を除いてすべて消失しました。早速再建が始まり、本堂はやや規模を縮小して、安政4(1857)年に再建されました。その本堂は、桁行7間 、梁間7間、入母屋造、本瓦葺の建物です。

本堂内には、正面にご本尊阿弥陀如来像が鎮座し、両脇には「厭離穢土(おんりえど)」「欣求浄土(ごんぐじようど)」が掲示されています。ご本尊の阿弥陀如来像は平安末期の作られたものだと言われています。

本堂内から方丈や位牌堂に回るようになっていて、そこにある宝物を見ることができます。こちらは500円の入館料が必要です。
大方丈の襖壁・襖障子や杉戸の絵画は土佐派の冷泉為恭の描いたもので、国の重要文化財に指定されています。
また、方丈には登誉上人像が展示されていました。徳川家康が桶狭間の戦いの際に大高城から撤退し大樹寺に入った際に、家康は先祖の前で自害をしようとしました。その際に、大樹寺13代住職登誉上人が「厭離穢土、欣求浄土」の経文を示し、「戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目」と諭したことにより家康が翻意したと言われています。その時の事情が解説してありました。(※この登誉上人が家康を説得する場面は「どうする家康」でも描かれていました。)また、「貫木神」も鎮座していました。徳川家康が大樹寺に入った際、家康を追う一隊が大樹寺を囲みましたが、寺僧の一人祖洞和尚が門のカンヌキを引き抜いて打って出て、七十人力で阿修羅の如く戦い、敵を退散させました。後に家康はこのカンヌキを立志開運「貫木神」と命名したといいます。
また、位牌堂には、松平家歴代当主と徳川家歴代将軍の位牌が安置されていました。将軍の位牌は将軍の身長と同じ高さであると言われています。
これら宝物はすべて撮影禁止ですので、写真が撮れませんでした。ただ、位牌堂については、以前、このブログに書いてあり、写真もありますのでご興味のある方は下記をご覧ください。
境内の南西隅に多宝塔があります。この塔の建立年代は、心柱銘から天文4年(1535)の立柱と言われています。徳川家康の祖父松平清康が建立しました。一辺が三間(4.35m)で、屋根は宝形造です。元はこけら葺であったそうですが、現在は檜皮葺きとなっています。大樹寺境内における唯一の室町時代の建物です。

本堂の西側に松平歴代8代のお墓があります。大樹寺には、創建当時から松平家の墓が建立されてきましたが、元和元年(1615)徳川家康が墓所を再興し、元和3年(1617)に2代将軍秀忠が先祖8代の墓の再建修復を行いました。第4代親忠の墓標を中心に向かって右側3代の墓標は小さく、向かって左側4代は大きくなっています。


下記地図の中心が大樹寺です。

