本多正信、登場(「どうする家康」17)
「どうする家康」第5回では、駿府に残った瀬名と子供たちをどうしても奪還したいと考えた徳川家康(当時は松平元康)が苦慮した結果、本多正信が考えた奪還策を半蔵とともに実行するものの、失敗に終わるという流れでした。
瀬名と子供たちは、駿府から岡崎に無事戻ることができるのですが、そのプロセスについては従来の説に加えて新しい研究成果に基づく説がありますが、今回の展開は、従来の上之郷城攻めによる人質交換説つまり鵜殿長照が籠る上之郷城を攻めて生け捕りした鵜殿長照の子供たちと人質交換して瀬名たちを救出するという説に沿った前段階という位置づけで古沢さんが考えた組立だと思います。本多正信と服部半蔵が駿府にまで忍者集団を活用して奪還をめざす動きが本当にあったかどうかは確認しようがありませんが、手に汗握る大変おもしろいストーリーだと思いながら最後まで一生懸命見ました。
今回、本多正信と服部半蔵という新しい家臣が登場しました。この二人は、徳川家康の天下取りにあたって大変活躍しますので、これからもしばしば登場することになると思います。
そこで、今日は本多正信について書いてみます。
本多一族は、江戸時代を通じた大変栄えた一族です。明治の版籍奉還の時点で、岡崎藩、播磨国山崎藩、陸奥国泉藩、駿河田中藩、近江国膳所藩、伊勢国神戸(かんべ)藩、三河国西端(にしばた)藩、信濃国飯山藩の藩主が本多家でした。
こうしたことから、『家康の臣僚』の中で著者中村孝也氏は「本多家は枝葉の繁茂した大木であり、本系・支系の蔓(はびこ)っている一大族党であった。」と書いています。また、「本多平八郎忠勝はそのうちの定通系に属し、本多弥八郎正信はそのうちの定正系に属する。而して忠勝が武将型臣僚の第一人者であり、正信が政治経済型臣僚の第一人者であることによって見れば、本多家は家康の創業に対し、文武両面にわたって、偉大な貢献をなしたと言い得る。」と書いて本多忠勝と本多正信がいて天下を取れたと言っています。
本多正信と本多忠勝は、ともに本多氏を名乗っています。本多氏は「寛政重修諸家譜」によれば、太政大臣藤原兼通の後裔助秀が、豊後の本多郷に住んだので本多と称したといいます。助秀の子助定は足利尊氏にしたがい、軍功をあげ尾張国横根・粟飯原(あいはら)の両郷を拝領しました。助定より六代目の助時は三河に住んで徳川家康の先祖で松平家2代の松平泰親に仕えました。その子助政に定通・定正の二人の子供があり、定通の系統と定正の系統に分かれています。定通の系統から本多忠勝が誕生し、定正の系統から本多正信が誕生しています。「寛政重修諸家譜」では、この二系統は、どちらが嫡子でどちらが庶子かわからないとしています。つまり、本多正信と本多忠勝では、どちらが本家でどちらが分家かわからないようです。本多忠勝から7代目前が定通ですので、本多正信と本多忠勝は、広く考えれば同じ一族ということですが、身近な親戚関係という認識はなかったのではないでしょうか。「どうする家康」でもそんな雰囲気が現れていたように思います。
さて、本多正信は、本多俊正の子として、天文7年(1538)に三河に生れました。徳川家康は、天文11年(1542)12月26日寅の刻(午前4時頃)に生れたとされていますので、徳川家康より4歳年上ということになります。通称は弥八郎といいました。そのため、本多正信の系統を弥八郎系ともいいます。ちなみに本多忠勝は通称平八郎でしたので、本多忠勝の系統を平八郎系ともいいます。
「どうする家康」では、大久保忠世が家康に本多正信を推薦していて、二人が親しいこともうかがえましたが、『徳川家臣団』(綱淵謙錠著)に「若い頃には鷹匠という低い身分だったという。そして、大久保忠世に世・味噌・薪の援助まで受けるほどだった。」と書いてありますので、二人は親しかったのだろうと思います。
本多正信の生涯を書くとネタバレになる怖れがありますので、ここでは書きませんが、徳川家康が亡くなった元和2年4月17日から50日後の6月7日に、家康の跡を追うように79歳で亡くなっています。また、新井白石が書いた『藩翰譜』には、「大御所(徳川家康)、正信を見給うこと朋友の如く(後略)」と書いてあります。従って、これからも「どうする家康」にしばしば登場してくることになると思いますが、とりあえず、次回、どのようにして瀬名と子供たちを奪還するのかが楽しみです。
下写真は、安城市の本證寺にある本多正信の供養墓です。昨秋に続き1月末にお邪魔してきました。


