服部半蔵登場、ただし武士です。(「どうする家康」18)
「どうする家康」第5回に服部半蔵が登場しました。服部半蔵といえば忍者というイメージが非常に強く、「どうする家康」で、服部半蔵が「おれは忍者ではない。武士だ」と叫ぶ場面があったため、驚いた人もいたかもしれません。しかも忍者でないことを強調するため服部半蔵が投げた手裏剣が命中しない場面までありましたが、手裏剣の技があれほど下手かどうかは別としていわゆる忍者ではなかったのは事実のようです。歴史上の服部半蔵は徳川十六神将の一人に数えられるれっきとした武将です。数々の武功も挙げていて、家康から槍も拝領したといいます。そこで、今日は服部半蔵正成について書いてみます。
服部氏は、『寛政重修諸家譜』によれば、服部家長という人物が伊賀国阿拝郡服部郷を領したことから服部と称したようです。
服部半蔵の父は服部保長といいます。服部保長は、伊賀国の土豪でしたが、12代将軍足利義晴に仕え、その後、三河に下り、徳川家康の祖父松平清康及び家康の父広忠、そして家康と三代に仕えました。
服部半蔵は、実名正成といい半蔵は通称です。多くの人が伊賀生まれと思っていると思いますが実は三河で生まれました。『寛政重修諸家譜』には、何年に生れたかは書いてありませんが、徳川家康と同じ天文11年(1541)生まれだという説もあります。
服部半蔵正成は、「鬼半蔵」と呼ばれ、「鑓半蔵」と呼ばれた渡辺守綱と並び称されました。肥前平戸藩の松浦鎮信が表した「武功雑記」の中で、「渡辺半蔵鎗11度、首9つ。服部半蔵鎗2度、首11」と書かれています。
ところで、『寛政重修諸家譜』に「三河国西郡宇土城夜討の時、正成16歳にして伊賀の忍びのもの6・70人を率いて城内に忍び入り、戦功をはげます。」と書いてあります。
西郡宇土城とは、「どうする家康」に出て来た鵜殿長照の居城上之郷城のことです。
この事件は、『寛政重修諸家譜』には、いつのことか書いてありませんが、服部正成が天文11年生まれであれば、16歳は弘治3年(1567)となります。弘治3年は、徳川家康が瀬名姫と結婚した年です。従って、家康が駿府にいた頃の出来事となりますので、家康が直接指揮したことはないと思います。
しかし、「寛政重修諸家譜」の記録を参考にすれば、次回の「どうする家康」では、服部半蔵正成が忍びたちを率いて上之郷城に忍び込み、鵜殿長照の子供たちを生け捕るという展開もあるかもしれません。
さて、次回どうなるでしょうか。今から楽しみにしています。
服部半蔵正成は、徳川家康の天下取りとくに家康の三大危機の一つと言われる伊賀越えに際に大きな役割を果たしますので、これからも登場することだろうと思います。
その服部半蔵正成は、慶長元年(1596)11月、55歳で江戸で没しました。そして、死ぬ前に西念寺というお寺を開く準備をしていて、そこに葬られました。その西念寺が東京の四谷にあり、服部半蔵正成の槍も残されています。以前に、このブログにアップしたことがありますので、ご興味のある方はご覧ください。

