大樹寺の松平八代のお墓《岡崎⑶》(徳川家康ゆかりの地37)
大樹寺は松平氏の菩提寺です。そのため、本堂の西側に「松平八代の墓(松平氏初代親氏から8代広忠までのお墓)」が並んでいます。
大樹寺には創建当時から松平家の墓が建立されてきたそうですが、元和元年(1615)徳川家康が墓所を再興し、元和3年(1617)に2代将軍秀忠が先祖8代の墓の再建修復を行ったそうです。下写真は「松平八代のお墓」の全体の写真です。

今日は、八代の人々の簡単紹介とともに「松平八代のお墓」をご案内します。
入口を入ると正面左に徳川家康のお墓があり、右から左に初代親氏から8代広忠までの墓がならんでいます。それでは初代から順にご案内します。
初代 親氏
松平家の初代は松平親氏です。親氏は時宗の僧で徳阿弥と称し、諸国を遍歴し、三河国加茂郡松平郷(現豊田市松平町)に至り、この地の土豪松平太郎左衛門信重の娘婿となり、跡目を継ぎ松平親氏と名乗りました。松平親氏は、松平郷近隣の中山十七名(じゅうしちみょうめい)を制圧したと伝わっています。

二代 泰親
松平2代泰親は、親氏の子または弟ともいわれていますが、最近は、弟とする説が有力です。泰親は、岩津(岡崎市)に進出し、岩津城を奪取したといいいます。

三代 信光
三代信光は、初代親氏の子供とされています。信光は、大給(豊田市)保給(現岡崎市額田町)を攻め取り、寛正6年(1465)に額田郡の牢人丸山・大庭らが起した一揆を鎮圧しました。また、応仁・文明の乱の頃には安城城と岡崎城を攻略し、松平家の勢力を拡大しました。松平信光が勢力をのばすことができたのは、松平氏が室町幕府政所執事の伊勢貞親と被官関係にあったからであると考えられています。信光は、領地の拡大に応じて子供たちを各地に配置し、信光の子供たちから、竹谷松平家、形原松平家、大草松平家、五井松平家が起こっています。

四代 親忠
親忠は、信光の3男で、安城松平家の初代となりました。安城松平家は、もともと松平家の惣領ではなく、岩津松平家が惣領でした。しかし、岩津松平家が没落したころから安城松平家が松平家惣領となりました。そのため、安城松平家初代の親忠が4代とされています。なお、親忠は、文明7年(1475)、松平家の菩提寺として大樹寺を創建しています。

五代 長親
長親は親忠の子で、安城松平家の2代目ですが、安城松平家が松平惣領家となったために5代目とされています。
永正3年(1506)今川氏の三河侵入したことから起きた三河国の内乱である「永正三河大乱」の際に大いに活躍するとともに、この戦いのなかで松平惣領家の岩津家が滅んだため、安城松平家が惣領となりました。

六代 信忠
長親の子で、父から家督を継いで、松平氏の惣領となり、松平8代のうち6代目とされています。
信忠は、慈悲心がなく、暗愚であり、政務の手腕もなかったとされ、信忠を廃して弟信定を擁立しようとする動きが起こり、信忠派と信定派に分裂し争ったため、信忠は早めに隠退し、子供の清康に家督を譲ったといいます。

七代 清康
安城松平家の信忠の子として永正8年(1511)に生まれ、大永3年(1523)、家督をついで松平氏7代目惣領となりました。大永4年には 岡崎松平家の松平信貞と対立し、岡崎松平家の本拠山中城を攻め落とし、岡崎城をも明け渡させて、本拠を安城から岡崎に移しました。
これ以降、三河統一をめざして清康は目覚ましい活躍をし、各地の土豪を制圧していきましたが、天文4年(1535)に尾張守山の陣中で家臣の阿部弥七郎に殺されました。これを「守山崩れ」といいます。清康が亡くなったことにより、松平氏の三河支配体制は一挙に崩れ、松平家の苦難が始まります。

八代 広忠
広忠は、清康の子で清康が殺された時10歳でした。幼い広忠は、清康が亡くなった後、桜井松平家の信定によって 岡崎を追われ、僅かな家臣とともに伊勢・遠江を流浪することとなりました、その後、天文6年(1537)今川義元の援助により岡崎に帰城することができました。
広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれました。しかし、天文18年若くして死去しました。家臣に暗殺されたとも病死したとも言われています。
「どうする家康」で、桶狭間の戦いの後、大樹寺まで戻った徳川家康(当時松平元康)が先祖の墓前で自死しようとした場面がありましたが、その際のお墓は父広忠のお墓であったように思います。

最後に、岡崎市のホームページに、松平八代のお墓の高さが載っていましたが、参考になりましたので、それを引用させていただきます。
墓の高さは、初代親氏115.14cm、2代泰親115.14cm、3代信光145.44cm、4代親忠203.01cm、5代長親184.83cm、6代信忠178.77cm、7代清康184.83cm、8代広忠151.50cmです。

