上之郷城での人質生捕りに忍者が活躍(「どうする家康」19)
「どうする家康」第6回では、徳川家康(当時は松平元康)が上之郷城を攻める戦いの中で、服部半蔵が、甲賀忍者伴与七郎の助けをかりて城内に忍び込んで、鵜殿長照の子供二人氏長と氏次を生け捕りしました。これにより瀬名と子供たちとの人質交換ができることになりました。
この話は創作だと思った人もいると思いますが、これは完全な創作ではないと思います。
「改正三河後風土記」という本に次のように書かれています。
「岡崎より神君早々御出馬あり、御勢を名取山に屯し給い、甲賀の者どもを遣わし城を襲わせ、城中騒擾の虚に乗じて、神君烈しく指揮して責立給えば鵜殿兄弟も今は防戦の術尽きて(中略)城はたちまち落けれ(後略)」
『改正三河後風土記』は、徳川家康の重臣平岩親吉(「どうする家康」では岡部大さんが演じています)が編集した『三河後風土記』を天保3年(1832)に徳川家斉の命により、幕府奥儒者の成島司直が改めて編集したものです。
ここには、上之郷城攻めの際に、赤字部分の通り、甲賀者を使ったと書いてあります。
また、『新編岡崎市史』にも次のように書いてあります。
「元康は自身出馬して、松井忠次、久松俊勝(初名長家。元康母於大の二度目の夫)らに城を攻めさせた。松井忠次が甲賀衆を城内に忍び込ませて火を放ち、混乱に乗じて一気に城を攻め落とすことができた。長照と弟長忠は討死し、長照の二子氏長・氏次は捕虜となった。」
このように、上之郷城攻めの際に城内に甲賀衆を忍び込ませたのは事実と思われます。
『改正三河後風土記』と『新編岡崎市史』には、伴与七郎の名前は出ていません。しかし、研究者が書いた本ではありませんが、『戦国忍者列伝』(清水昇著)や『忍びと忍術』(山口正之著)に伴与七郎が上之郷城での戦いで家康を助けたと書いてあります。
また、東京都町田市にある泰巖(たいがん)歴史美術館には、この時の伴与七郎の功績に対して徳川家康から与えられた感状が所蔵されていて、2023年2月12日現在ホームページで確認したところ展示品目録に記載されていますので、現在展示されているのだと思います。
こうしたことから、伴与七郎の詳細はわかりませんが、伴与七郎という人物は実在した人物だと思います。
「どうする家康」では、服部半蔵も一緒に城内に忍び込んでいますが、これは以前紹介した『寛政重修諸家譜』の「三河国西郡宇土城夜討の時、正成16歳にして伊賀の忍びのもの6・70人を率いて城内に忍び入り、戦功をはげます。」という服部半蔵の16歳の時の功績を、永禄5年の上之郷城攻めの時のこととして描き直したものだと思われます。
上之郷城主の鵜殿長照の子供を生け捕って、瀬名と子供たちと人質交換したことを私は知っていましたが、どのようにして生け捕ったかまでは考えたことはありませんでした。まして、この作戦に忍者が活躍したことなどまったく知りませんでした。今回の「どうする家康」を見て、上之郷城攻めに忍者が活躍したことを知りました。脚本の古沢良太さんおよびその周辺の人々の情報収集力はすごいと改めて思いました。

