瀬名と子供たちの人質交換はあったのか?(「どうする家康」20)
「どうする家康」第6回では、瀬名と子供たちを鵜殿長照の子供たちとの人質交換で奪還するというお話でした。
この瀬名と竹千代(後の信康)と亀姫を、上之郷城攻めで生捕りにした鵜殿長照の子供氏長と氏次との人質交換で奪還するということは、従来の通説でした。
最近でも本多隆成氏は『定本徳川家康』の中で「元康はまず西郡上之郷城を攻め、永禄5年11月に長照を討つとともにその子二人を捕虜にした。ついで、長照の母は今川義元の妺であり、長照は氏真とは従兄弟の関係にあったので、この二子と駿府で人質状態になっていた元康の正室関口氏(築山殿)・嫡子竹千代 (信康)・長女亀姫との交換か成立した。」(p33)と書いていて、特に異論はないようです。
こうした通説に従って、「どうする家康」でも、瀬名と子供たちが鵜殿長照の子供たちとの人質交換によって、奪い返されています。
しかし、これとは異なる見解が、最近、主張されていますので、今日は、その説を紹介します。
まず柴裕之氏の説を紹介します。柴裕之氏は、鵜殿長照の子供との人質交換で取り戻したのは竹千代だけで、それ以前に瀬名と亀姫は今川氏真の許可のもと岡崎に移されたと『青年家康』で主張しています。少し長くなりますが、引用ささせてもらいます。
「(家康は)府に滞在することはなくなったが、依然として今川家の従属のもとで、岡崎領を支配する松平家当主の立場にあったのである。
それと関係して、注目したいのは、駿府から元康の正妻・関口氏(築山殿)と長女の亀姫(永禄三年生まれ)が岡崎に迎えられていることだ。 一般的に知られているところでは、築山殿と亀姫は、永禄5年11月に鵜殿氏を攻略した際に得た子息二人との交換によって、嫡男の竹千代(のちの松平信康)とともに、岡崎に迎えたとされていて、前著でもその通りに記した。しかし、これは江戸時代中5後期以降の編纂物にみられるものである。『松平記』『三河記』など江戸時代初期に編纂された史書を改めて読み直すと、この時に今川家より取り戻したのは、竹千代のみとなっている。
また、同時期に編纂された『当代記』には、『義元尾三境において討死の後、家康公岡崎へ移らせしめ給う、時に、妻女・息女は三川岡崎へ移られる、一男これを竹千代主と云い、のちに三郎信康と号す、は駿府に人質として居住なり』と、元康の岡崎帰還に伴って、築山殿と亀姫が岡崎に移り、竹千代は駿府で人質にあったことが記されている。これらの記述から、築山殿と亀姫を岡崎に迎えたのは、元康の岡崎帰還後であったとみられる。そうなると、築山殿と亀姫の岡崎への移居は、氏真の許可を得ておこなわれ、嫡男だった竹千代のみが人質として駿府に置かれ続けていたと判断される(この点は、前著の記述を訂正する)。つまり、 このことからも、元康による岡崎領の経営は、今川氏から承認を得たものであった
とわかり、この時期の元康を今川氏と敵対するような立場でとらえることはできない。」
柴裕之氏は、このように、徳川家康が岡崎に帰城した後、今川氏真の許可を得て瀬名と亀姫を岡崎に迎えていて、竹千代だけは家康の嫡男として駿府に留め置かれたので、その竹千代を鵜殿長照の子供たちと人質交換に取り戻したと主張しています。(なお、家康は桶狭間の戦いの後も引続き今川氏真に従属する立場で岡崎城にいて、今川家とは敵対していなかったとしています。)
また、黒田基樹氏も最新刊の『家康の正室築山殿』の中で、柴裕之氏と同じように、家康の岡崎帰還に伴って岡崎に移住したと主張されています。

「元康の岡崎城帰還にともなって、駿府で生活していた築山殿は、岡崎に移住したとみなされる。これまで築山殿の岡崎領入部については、これより二年後の鵜殿家との人質交換によると理解されてきた。しかしそのことを示す明確な史料は存在していない。さらにこれまで使用してきたような、江戸時代の成立ながらも信頼性の高い史料にもそうした内容は記されていない。したがって築山殿の岡崎領への移住が、二年後のことであるというのは、確かな根拠のない全くの俗説にすぎないのである。では実際はいっ頃のことと考えられるであろうか
そのことに関する記述は、「当代記」にみえているにすぎないが、元康が岡崎城に帰還したことに続けて
時に妻女・息女は三川岡崎へ移られ、一男〈是を竹千代主と云う、後に三郎信康と号す〉は駸府に人質として居住也、
と記している。すなわち、元康が岡崎城に帰還したことをうけて、妻の築山殿と娘の亀姫は、岡崎に移り、嫡男の竹千代(信康)は、人質としてそのまま駿府に居住した、というのである。これに関しては『三河物語』と「松平記」にも、駿府に居住を続けていたのは竹千代だけのように記しているので、これらのことは事実とみなしてさしつかえないと考えられる。」
従来の通説は、家康は瀬名を鵜殿長照の子供との人質交換によって奪還したという見解でした。「どうする家康」でも従来の通説に従って物語が展開していました。しかし、現在では、瀬名は、氏真の許可のもと岡崎に移住したという説つまり瀬名については人質交換が行われなったという説が主張されるようになってきています。今後、研究者の間で、どのような議論がされるのかも注目していきたいと思います。

