三河一向一揆勃発(「どうする家康」23)
「どうする家康」第7回では、三河一向一揆の勃発が描かれました。そこで、今日は、三河一向一揆について書いてみます。
三河では、本願寺派の蓮如上人が、応仁2年(1468)頃に布教のため下向したことことから、一向宗が広がり、三河は、北陸・近江などとともに本願寺教団の重要な地盤となりました。
一向宗の中心となったのは、蓮如上人が布教の拠点とした土呂の本宗寺、そして三河三ヶ寺と言われた「野寺本證寺」「佐々木上宮寺」「針崎勝鬘寺」でした。
一向一揆の発端となった事件の場所について二説あって、本證寺説と上宮寺説があります。
『岡崎市史』では、どちらが正しいか定かではないとしていますが、安城市教育委員会の『安城市文化財調査報告書第5集 雲龍山本證寺調査報告』には、「当時三河本願寺教団の代表的立場の本證寺が発端とするのが妥当である。」と書いてあり、本證寺説をとっています。
「どうする家康」では、本證寺で、三河一向一揆が始まっていますが、こうした説に基づいているものと思います。
なお、『雲龍山本證寺調査報告』によると、『松平記』に一揆の勃発について、「一揆の発端は家康配下の菅沼藤十郎という武士が、上宮寺に干してあった籾を、自身の兵糧米として奪い取り、これに怒った三か寺の坊主たちが、配下の土民を菅沼の所に差し向けて、実力で「雑穀」を取り戻した。そこで菅沼はこの件を酒井政家に届け出たので、酒井が使者を派遣したが、その使者を三か寺は斬り殺した。家康はこれを聞いて犯罪人の処罰を命じ、これに反発して一揆がおこった」と書いてあるようです。
このあたりは、「どうする家康」で描かれた本證寺との交渉場面の展開によく似ていると思います。
本證寺で一揆が勃発する前に、織田信長が鷹狩りという名目で西尾に出張って謀反の企ての芽と摘むという場面が描かれていましたが、このころ、上野城の酒井忠尚が家康から離反する気配を見せていました。そして吉良義昭らも対決姿勢を強めていました。このように三河国内の情勢が不安定となる中で、今川方との戦いが予想され、その準備のために兵糧と金が必要という状況に追い込まれていました。
そこで、徳川家康は、どうしても兵糧とお金が必要になったので、一向宗の寺院に手をつけたのでしょう。
しかし、これが、松平家を揺るがず大事件となり、徳川家康にとっても「三大危難」の一つに数えられるようになります。
「どうする家康」での松潤演じる家康には、そんな危機感はなかったように思えますが…。
既に、渡辺守綱が本證寺に入っていますが、史実では、渡辺守綱のほかに、「どうする家康」にしばしば登場している本多正信や夏目広次も一向宗一揆側に加わります。
さて「どうする家康」では、次回はどう展開するのか楽しみです。

