本證寺住職空誓は蓮如の曽孫(「どうする家康」25)
「どうする家康」では、空誓上人が、三河一向一揆で、重要な役割を果たしています。そこで、今日は、空誓上人について書いていきます。
空誓上人は、蓮如上人の曽孫と紹介されていますので、まず、蓮如上人および本願寺の歴代宗主について説明します。
蓮如上人は、本願寺8世宗主で、中興の祖と称されています。本願寺第7世存如(ぞんにょ)の長子として生まれましたが、その頃の本願寺はまったく衰退していて、貧しい生活の中で成長しました。蓮如は本願寺第8世を継いだ直後から近江を中心に活発に布教を開始したため比叡山の反感を受け本願寺を破却されたため、越前吉崎に道場(吉崎御坊)を開いて布教活動を行い、大きな勢力となりました。その後、吉崎を退去し、京都の山科に本願寺を建立し、本願寺教団の再興を遂げました。
その後、本願寺教団は、蓮如五男の第9世実如に引き継がれました。その後、実如の次男円如が若くして死んだため、その子証如が第10世宗主となりました。
証如が本願寺宗主の時の天文元年(1532)、六角氏と法華宗徒に山科本願寺が焼かれて、大坂石山本願寺にうつりました。証如は、本願寺教団の統制を強めるため、宗主の親族・血縁を各地の中心寺院に派遣した教団を統率させました。その証如は、天文23年(1554)8月13日、39歳の若さで急死しました。
証如が重態となったため、亡くなる前日8月12日、その子顕如の得度が急遽行われ、証如が死去した13日、顕如が第11世宗主を継ぎました。顕如は、天文12年(1543)生まれでしたので、年齢は12歳でした。
(※徳川家康は天文11年(1542)12月26日生まれですので、家康のほうが一歳年上でした。顕如が第11世を継いだ頃の天文24年(1555)3月に家康は駿府で元服しています。)
この顕如の時代、本願寺教団は最盛期を迎え、織田信長と死闘を繰り返したことは有名です。
三河の一向一揆が起きたのは、顕如が宗主の時代です。
さて、本證寺住職空誓上人は蓮如上人の曽孫ですが、第9世実如の孫ではなく、その弟実賢の孫でした。その系図を表すと、実賢(蓮如の九男)―実誓―空誓となります。空誓の父実誓は、近江国堅田慈敬寺の住職でした。空誓は、実誓の次男でした。
永禄4年(1561)空誓は本證寺住職となりましたが、その時、17歳でした。
三河の本願寺教団が勢力を拡大していた天文年間(1532~1555)、土呂本宗寺には第9世実如の子実円が住職として入寺していました。そのため、三河の本願寺教団を指導していたのは、本願寺の一族であった土呂本宗寺住職実円でした。その実円が亡くなったあと本宗寺を継いだのは実円の孫証専でした。
そのため、本宗寺が、三河の本願寺教団を指導する立場でしたが、証専は、兵庫に滞在することが多く、三河にはあまり居ませんでした。そのため、蓮如の孫にあたる空誓が、必然的に三河本願寺教団の指導者として登場することとなりました。
「どうする家康」でも、空誓上人が、三河一向一揆の中心人物として描かれていますが、それは史実上の話です。ただ、空誓上人は、もう立派な大人として市川右団次が演じていますが、史実上では、三河一向一揆が起きた永禄6年の時、空誓上人は19歳という若者でした。
19歳の若さでは、一向一揆を指導しきれるわけがありませんので、どうしても作戦を考える軍師が必要となります。おそらく三河一向一揆でも、空誓を補佐する人物がいただろうと思います。しかし、『三河物語』や『改正三河後風土記』では、そうしたことについては書いてありません。そんな中で「どうする家康」では軍師役を本多正信に演じさせているというところが脚本家古沢良太氏の妙ということだと思います。なお、本多正信は、一向一揆に参加していますが、軍師役として参加したかどうかは不明です。

