三河一向一揆、終結する(「どうする家康」26)
「どうする家康」第9回では、三河一向一揆が終結しました。三河一向一揆は、家康側にも、一揆方にも、決定的な勝利を収める機会がなく、時が過ぎていきました。
「どうする家康」では、膠着状態に陥った争いを動かしたのが、叔父水野信元の進言であったと描かれていましたが、このことは、「新編岡崎市史」によれば、一揆方の渡辺半蔵守綱(「どうする家康」では木村昴さんが演じています)の旧談を子重綱が記録した「守綱記」に、和議は水野信元の斡旋によると書いてあり、事実とみてよいとされています。ただし、その斡旋の詳細は記されていないそうです。
三河一向一揆の終結の経緯は、『三河物語』にも書かれています。それによれば、土呂本宗寺に入っていた蜂屋半之丞が大久保忠佐・忠勝を仲介として家康へ和議を申し入れたところ、家康が承知したので、蜂屋半之丞は数人と協議して、①一揆参加者の赦免、②一揆張本人の助命、③寺内不入権は従来通りという三条件を提示しました。家康は②を拒否したが、蜂屋半之丞らはそれが認められねば和議は成立しないと主張しました。そうした中で、一揆方との戦いにおいて上和田砦を守りぬいた大久保一族の一人大久保忠俊が、一族が苦労して戦った褒美として一揆張本人たちの助命をお願いしたことから、家康も、三条件を呑んで和議に応じる決断をしました。そして、岡崎の浄珠院で起請文を書いて蜂屋半之丞たちに渡したと言います。これを受けて蜂屋半之丞が籠っていた土呂本宗寺の一揆方は降伏しました。この後、他の一向宗側も降伏したと考えられています。
こうして、一向一揆が収束した後、5月頃に、家康は突然一向宗に対して改宗命令を出しました。これに対して、一向宗側は、家康の起請文をたてにこれに抵抗しました。しかし、家康は、一向宗側の抗議を無視して、一方的に寺院を破却させました。これにより、一向宗の坊主たちも三河を立ち退かざるをえなくなりました。
「どうする家康」は、和議の前段階から家康が破却するつもりだったと描いていますが、結果からみれば、家康はその通りだったということになります。
また、寺院を破却する言い訳について、本多正信が「もともとは野原だったのだから、野原に戻すと話したらどうか」と進言していました。
『三河物語』には、「(家康が)『前々は野原なれば、前々のごとく野原とせよ』とおっしゃられて、(寺院を)打ち破りたまえば、坊主たちは此方彼方(ここかしこ)へ逃げちりてゆく」と書かれています。
本多正信の入れ知恵かどうかは定かではありませんが、家康は「野原に戻す」という屁理屈で寺院を破却したようです。
一向宗側にとっては騙されたと同じ結果となってしまいました。そのため、一向宗の坊主たちは、三河を去らざるをえなくなりました。本證寺の空誓上人は、他国に逃げることはなく、三河国東賀茂郡足助(現在豊田市足助町)に隠れ住んでいたようです。安城市の本證寺の御住職のお話では、空誓上人を匿った足助の人々の子孫の方々との交流が現在でも続いているそうです。
さて、家康に刃向かった家臣の多くは、一向一揆終結後、帰参が許され、夏目広次、渡辺守綱、蜂屋半之丞、本多広孝などが許されています。
しかし、本多正信は、終結直後の帰参は許されず三河を追放され、加賀国にしばらく住むことになり、帰参できるまで時間がかかりました。

