家康最初の側室西郡(にしのこおり)の方(「どうする家康」)
「どうする家康」第10回は、「側室をどうする!」というタイトルで最初の側室「お葉」が登場しました。「どうする家康」では、お葉と呼ばれていますが、多く史料では「西郡(にしのこおり)の方」と呼ばれています。「西郡(にしのこおり)の方」の本当の名前は不明で、「お葉」と言う名前は「どうする家康」で付けた名前だと思います。「西郡(にしのこおり)の方」の法名は『蓮葉院殿』ですので、この法名からつけた名前でないかと私は推測しています。
「西郡(にしのこおり)の方」は、『幕府胙胤伝』には、鵜殿長祐の娘、鵜殿長忠の娘、鵜殿長持の娘(記載順)という三つの説が書かれています。鵜殿長祐は鵜殿長照の叔父、鵜殿長忠は鵜殿長照の弟、鵜殿長持は鵜殿長照の父です。
『寛政重修諸家譜』では、鵜殿長忠の女子として西郡の方が記載されています。また『蒲郡市史』にも鵜殿長忠の養女であると書いてあるようです。
「どうする家康」に登場している鵜殿長照は上之郷城を拠点とする鵜殿氏の本家ですが、鵜殿氏には、下之郷城を拠点とした下ノ郷鵜殿家、不相(ふそう)城に拠った不相(ふそう)鵜殿家、柏原城に拠った柏原鵜殿家の3つの分家がありました。
『蒲郡市史』で西郡(にしのこおり)の方の養父とされた鵜殿長忠は、柏原鵜殿家の初代で、鵜殿長照の弟です。ちなみに下ノ郷鵜殿家の初代は長照の祖父の弟で、不相鵜殿家の初代も長照の祖父の弟です。
現在の「どうする家康」が描いている時期は、家康が三河を統一した永禄9年(1566)頃です。「どうする家康」では、お葉は、閨を共にした10か月後に娘「おふう」が生まれていましたので、お葉が側室となり娘が生まれたのは永禄8年~9年頃のことになります。
しかし、『幕府胙胤伝』には、西郡の方は、「天正年中奥勤、侍枕席」とあります。つまり、「天正年間(1573~1592)に奥勤めとなり、夜の伽をするようになった」としています。一方、『蒲郡市史』には、永禄8年(1565)11月岡崎城で督姫を生んだと書いてあるようなので、「どうする家康」は、こちらの説をとったということになります。
「どうする家康」ではお葉は「おふう」を産んでまもなくお暇をお願いしていましたが、西郡(にしのこおり)の方の督姫を生んだこと以外の経歴については、ほとんど不明です。さらに下記の通り伏見城で亡くなっているという事実からするとお暇が許されたということはなかったと思われます。従って、お葉が「みよ」を愛しているという話は、もちろん最近の性の多様性を意識した創作だと思います。
西郡(にしのこおり)の方は、慶長11(1606)5月14日伏見城において亡くなっています。
なお、西郡(にしのこおり)の方が産んだ督姫は天正11年(1583)7月に小田原の北条氏直の許に輿入れをしました。しかし、天正18年、小田原城攻撃により北条氏は敗北し、北条氏直は高野山に蟄居し、その後若くして亡くなったため、督姫は徳川家に戻りました。その後、豊臣秀吉の媒妁で池田輝政と再婚しました。池田輝政との間に生れた池田忠雄(ただかつ)は岡山藩主となり、さらにその子孫は鳥取藩主となり、明治維新を迎えています。

