家康正室「築山殿」の名前の由来(「どうする家康」28)
「どうする家康」第10回で、於大が、「築山に住んでいるのだから築山殿と呼ばなくてはなりませんね」と話しかけて、瀬名が築山殿と呼ばれるようになりました。下写真は、総持寺に掲示されていた「築山殿」です。

徳川家康の正室は、一般的に「瀬名」と呼ばれていますし、「どうする家康」でも「瀬名」ですが、正室の名前がどのような名前であったかを示す史料はありません。しかし、築山殿と呼ばれたことは確実のようです。
築山殿という名前の由来は,於大が言っていたように「築山に住んでいたから」です。『新編岡崎市史』では、「築山殿とは。岡崎来住後は総持寺の築山の近くに住んだためという。」述べています。
それでは、築山とはどこなのかですが、『新編岡崎市史』に「岡崎の総持寺の近く」と書いてあります。現在も岡崎に総持寺があります。そして、その総持寺の境内には、築山稲荷が鎮座しています。その総持寺を訪ねてみました。下写真が総持寺本堂です。

総持寺の説明文には、「今を去る約800年の昔。順徳天皇の御世、健保2年(1214)宮中に毎夜妖怪が現れて人を悩ませた。宿衛の士本間三郎重光が招きをうけてこれを射たところ、一匹の白狐であった。その後たまたま帝が病にかかられ医療も効を奏しないので陰陽博士に占わせたらこの白狐の祟りということで博士は「重光の所領である三河の菅生郷に、日本六十余州の名山の土を集めて山を築きその頂きに稲荷社造立し傍らに一寺を建て、皇女剃髪して祈り給えば聖体安穏」と奏上、その通りにとりはからった。即ちこれ築山稲荷総持尼寺の創建であり開基は利慶徳善大比丘尼である。」と書いてあります。
これを読むと、全国の名山の土を集めて山を築いたので「築山」と呼ぶようにしたことがわかります。下写真が築山稲荷です。

総持寺と築山稲荷は、現在は、岡崎市中町にありますが、それ以前は岡崎城近くにありました。総持寺にある説明文に「当寺は創建以来ずっといまの篭田町地内、岡崎市街の中心地にあったが対象の末年ころは伽藍も朽廃甚だしく、よって復興再建のため岡崎市当局の協力を得て国有の境内地を岡崎郵便局の用地として提供、寺は中町小猿塚の地に移転新築することとし紆余曲折あったものの昭和5年現在地に移転改築を完了した。」と書かれていました。
この説明文にある岡崎郵便局は、現在の岡崎康生郵便局のことと思われます。下写真の手前が、岡崎康生郵便局です。その後ろに写っているビルがNTT支社(現在はNTT西日本 岡崎電話交換所)です。

なお、『新編岡崎市史』では、「総持寺が昭和2年に籠田町(現NTT支社辺)から現在地へ移転した時に、(築山稲荷も)同じく中町の現在地に移転した。」と書かれています。ここに書かれているNTTは岡崎康生郵便局のすぐ南側にありますので、ほぼ同じ場所を指していることになります。下写真がNTT支社(現在はNTT西日本 岡崎電話交換所)です。なお、手前の石像は徳川四天王の井伊直政です。

「どうする家康」では、築山殿は、駿府から岡崎に帰った際は岡崎城に帰ってきています。そして、しばらくしてから、築山殿からお願いして築山に屋敷をもらったとなっていますが、『新編岡崎市史』では、「築山殿とか築山御前と呼んだのは、永禄5年(1562)に駿府から岡崎に迎えられたあと、この付近に住んだためという」と書いてあり、岡崎に迎えられた早々に築山に住んだように思われます。黒田基樹氏は「家康の正室築山殿」の中で「松平記」などの記述から「岡崎への移住の当初から築山に居住したとみておくことにしたい」と書いています。
下地図中央が総持寺です。
下地図中央が岡崎康生郵便局です。

