築山殿は側室の任免権を持っていた!(「どうする家康」29」
「どうする家康」第10回で、築山殿が側室を決める場面がありました。現代の感覚では、少し違和感を感じた方もいるかもしれません。しかし、戦国時代では、こうしたことは珍しくなかったようです。平凡社新書「家康の正妻 築山殿」(黒田清隆基樹著)に書かれていますので、このことについてどう書かれているか紹介したいと思います。

黒田基樹氏は、当主家の妻を、正妻と「家」妻という立場があるとしています。「家」妻というのは、黒田基樹氏によれば、「当主である男性家長と対をなして、「家」の主婦権(その内容の解明そのものがいまだ課題となっている)を管轄する存在」だそうです。
築山殿は、当然、家康の正妻ですが、「家」妻でもありました。そのため、築山殿は、「女房衆」(特にコメントされていませんが、おそらく、身の回りの世話をする女性のことと思われる)の任免権を持っていたそうです。(p143より)
今回の「どうする家康」では、西郡の方が側室となり督姫を産むのが永禄8年頃の話としてありますが、「家康の正妻 築山殿」では、天正3年に生れたとしてあり、督姫より先に次男秀康の誕生の際の話を先にしています。
次男秀康は、天正2年(1574)に生れたと言われています。母は法名を長勝院殿といった女性で、三河知立神社の神主永見淡路守の娘であり「お万」と名乗ったとされています。誕生は浜松城下の宇布見村の中村源左衛門屋敷とされています。城内で生まれなかったのは、お万の方が妊娠したことについて築山殿が嫉妬したため、城内に居住できなかったため、本多重次の配慮により、中村源左衛門に預けたためと俗に言われています。
これについて、黒田基樹氏は「『嫉妬』という表現が正確なものかどうかはともかくとしても、築山殿が承知しなかったことは間違いなく、そのため城外に退去せざるをえなかったことがわかる」と書いています。
さらに「長勝院殿が家康の子どもを妊娠することについて、築山殿は承認していない事態のため、城内から退去させたと理解することができる。それは正妻としての権限であった。正妻は、別妻や妾として承知するかどうかの権限をもっていたと考えられる。築山殿は、長勝院殿を家康の妾とすることを承知しておらす、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したとみなすべきであろう。それが江戸時代前期になると、妻の『嫉妬』などという、矮小化した理解になってしまっている。」と書いています。
一方、西郡の方が督姫を産んだ場合については次のように書いています。
「督姫の出生について、具体的なことは全く伝えられておらず、先の秀康の場合のような問題は伝えられていない。そうすると西郡の方の出産は、築山殿の了解のもとであった可能性が想定される。(中略)西郡の方が浜松城の奥勤めをすること、西郡の方が家康の子を妊娠すること、そして西郡の方が督姫を出産することすべてが、築山殿の差配によったと考えることができる。築山殿は、天正元年の時点で32歳あるいは34歳くらいになっていた。そのため家康の子を産むことはなくなっていた。しかし徳川家の繁栄のためには、家康の子が必要であった。そのため築山殿は、自身に代わって、家康の子を産む存在を必要とした。そこで築山殿が、その役割を担う存在として、西郡の方を選抜し、浜松城の『奥向き』に奉公させたのだろう、と考えられる。」
これらを読むと、戦国時代の正妻や「家」妻は、側室の選出や管理について、相当の権限を持っていたようです。こうした正妻の権限に対して、家康も異を唱えることは難しかったようです。そのため、秀康は長いこと家康の子供として認知されず親子の対面もできませんでした。
築山殿は、長勝院を追放したことから「嫉妬深い」と俗に言われていますが、この評価は、正妻の権限に基づいておこなったことが忘れ去られたことや後に築山殿事件が起きていることからこうした評価を広めておく必要もあったのではないかと思います。
なお、「どうする家康」第10回で、督姫の幼名を「おふう」と呼んでいましたが、「督」「徳」のほか「富」「普宇」という名前が伝わっていると「家康の正妻 築山殿」に書かれていますので、こうした言い伝えをもとにした呼び名のようです。

