家康と信玄との密約(「どうする家康」30」
「どうする家康」第11回では、「徳川への改姓」から徳川家康の引馬城攻撃まで描かれていましたので、永禄9年(1566)から永禄11年(1568)までの出来事が描かれていたことになります。
いろいろな出来事がありますが、今日は、今回のタイトルとなっていた「信玄との密約」について書いてみます。
甲州の武田家、駿河の今川家、相模の北条家は、甲相駿同盟と言われた三国同盟を結んでいました。この同盟は、三国の間で婚姻関係を結ぶことにより補強されていました。武田家と今川家の間では、武田信玄の嫡子義信に今川義元の娘嶺松院が嫁ぎました。しかし、今川義元が桶狭間の戦いで討死し、今川氏の領国が揺るぎ始めると、武田信玄は今川領国への侵攻を考えるようになります。
一方、徳川家康は、既に織田信長と同盟を結び三河国内の今川方の諸城を攻撃しており今川家とは敵対関係にありました。さらに、徳川家康が領国を拡大するためには、遠江に進出することが第一の選択肢で遠江の諸城に対する調略も行っていました。
このように、武田信玄と徳川家康には共に今川領国に侵攻する大きな理由がありました。そこで両氏は協力して今川領国に侵攻しようという密約を結ぶことになります。
徳川家康と武田信玄の交渉の仲介をしたのが、織田信長です。織田信長は、足利義昭を奉じた上洛を前に、尾張・美濃およびその背後となる三河・信濃・甲州の情勢が安定していることが必須となります。織田信長は美濃を押さえていましたが、武田信玄も東美濃に進出してきて、境界を接せることになりました。一方、武田信玄も、上杉謙信という強敵を前に織田信長と争うのは得策でないし、足利義昭の上洛を邪魔する理由もありませんでした。そこで両氏は「甲尾同盟」と呼ばれる同盟を締結しました。こうした事情を背景に徳川家と武田家の交渉が開始されました。※徳川家康と武田信玄との交渉開始を働きかけたのは織田信長サイドと書いている本もありますし武田信玄サイドと書いてある本もあります。
しかし、徳川家と武田家との交渉がどのように行われたか、いろいろな本を調べてもハッキリしません。「徳川家康と武田信玄」(平山優著)には「家康と信玄が直接外交交渉を実施した史料は発見されていない。」と書かれています。これによれば、「どうする家康」で描かれていた徳川家康の目の前に武田信玄が現れるのは明らかに創作だとしても、石川数正や酒井忠次の交渉場面も想像ということになりそうです。
さて、徳川家と武田家の密約は締結されたのは事実のようですが、その中で最も重要な項目が今川領国をどう分割するかでした。
よく言われるのが、この時の密約は「駿河を武田家のもの、遠江を徳川家のものとするということだった」という話ですが、「どうする家康」では、「切り取り次第」つまり早いもの勝ちということで合意したとなっていました。
しかし、研究者の中で様々な説があるようです。
本多隆成氏は、「駿河は武田、遠江は徳川か原則だが、切り取り次第ということで、信玄が遠江を切り取ってもよいという含みを持たせていた」と『徳川家康と武田氏』で書いています。
柴裕之氏は「武田側は天竜川、徳川側は大井川と認識していた。」と『徳川家康 境界の領主から天下人へ』に書いています。
また、丸島和洋氏は「駿河・遠江ともに、武田と徳川の自力次第が密約の実態だった」と主張しているようです。
平山優氏は、「徳川家康と武田信玄」の中で、「一応『川切』を目安とするが、両氏とも駿河・遠江を切り取り次第とし、どちらがそれらに手を伸ばそうとしても問題にしないという合意だったのではないだろうか」と書いていて、本多隆成氏とほぼ同じ説のようです。
どれが有力な説かは今後の研究次第ということになるのでしょう。

