武田信玄の駿河侵攻の背景(「どうする家康」31)
「どうする家康」では武田信玄が徳川家康と密約を結んだうえ駿河に侵攻したことは描かれていますが、武田信玄がどうして駿河侵攻まで進んだかについては描かれていませんでした。今日は、その部分について書いてみます。
織田信長と武田信玄との本格的な接触が始まったのは、永禄8年(1565)のことといわれています。この頃、尾張を統一した織田信長は、美濃攻略を目指していました。一方、武田信玄も東美濃に進出していました。そこで、美濃攻略にあたって、武田信玄と手を結ぶことになり、織田信長は、自身の姪を養女とし、信玄の四男勝頼に嫁がせようとしました。
こうした動きに対して、信玄の嫡男義信は、今川義元の娘嶺松院殿を正室としていて、今川氏との同盟を堅持する考えでした。そのため、信長との同盟に反対し信玄との間に対立が生じました。
その結果,永禄8年10月に起きたのが「義信事件」と呼ばれる義信とその側近による信玄暗殺未遂事件です。これは事前に発覚し、首謀者の飯富虎昌らが処刑され、義信は甲府の東光寺に幽閉されました。そして、義信は永禄10年(1567)10月19日には東光寺で死去しました
「義信事件」の発生に今川氏真は大変驚き、信玄に不信感を募らせました。そこで、氏真は、武田信玄と争っていた上杉謙信との同盟締結を本格的に考え始めました。また、義信が死去した後、氏真は、義信の正室嶺松院殿を駿河に帰国させるよう信玄に強く要請しました。しかし、信玄は、嶺松院殿を帰国させると甲駿同盟が崩れることを危惧して、要請に難色を示しました。そこで、北条氏康が仲介に乗り出し、氏真が同盟継続の起請文の提出にやむなく応じたことにより、嶺松院殿は帰国できることとなりました。
氏真が同盟継続の起請文の提出したことにより義信死去後も表面上は甲駿同盟は維持されていましたが、同盟の破綻は必至の状況でした。そのため、今川氏真と上杉謙信との同盟交渉が行われ、永禄11年4月頃には同盟締結が合意されたと言われています。
この駿越同盟締結の情報は信玄も把握していたようです。今川家と上杉家で同盟を締結するということは、三国同盟の破綻を意味することですので、これが、駿河侵攻時の武田氏側の侵攻の口実とされました。
家康や信長との交渉も行い今川領国侵攻の準備を着々と整えていた信玄は、こうして、永禄11年12月6日、駿河侵攻を開始しました。
12月という真冬の時期に駿河侵攻を開始したのは、この時期であれば、越後の上杉謙信が雪の為国境を越えるのが難しくなるという事情があったためでした。

