信玄、駿府を電撃占領(「どうする家康」32)
永禄11年(1568)12月6日、武田信玄は、今川氏真との同盟を破棄し、大軍を率いて甲駿国境を突破し、今川領国への侵攻を開始しました。そして、あっという間に駿府に突入し、13日には駿府を占領しました。今日は、どうしてこんな簡単に駿府が陥落したのか、その事情を「静岡県史」などを参考に書いてみます。
武田信玄は、富士川沿いに南下し駿府をめざしました。信玄は、駿河侵攻前に事前に駿河領内の国衆や土豪たちに調略の手を伸ばしていました。そのため、武田信玄が国境を越えて駿河に入ると富士郡の土豪たちはつぎつぎと武田軍に馳せ参じました。
その中で、富士郡の国衆富士信忠は、大宮城(静岡県富士宮市)に籠城し、武田軍に抵抗姿勢を示しました。これに対して武田信玄は、12月9日、大宮城を攻撃しましたが、大宮城の抵抗は厳しく、簡単に大宮城を陥落させることができませんでした。そこで、武田信玄は、今川軍の態勢が整わぬうちに、駿府に乱入しようと考え、大宮城攻撃を中止させ、12月13日、全軍を薩埵峠に向けました。
武田信玄の駿河侵攻を知った今川氏真は、今川軍を難所とされる薩埵山に布陣させ、ここで武田軍を食い止め、氏真の正妻早川殿の実家北条氏に背後を突いてもらうことにより挟撃しようとしました。そして、氏真自身も興津の清見寺(せいけんじ)に本陣を置き、武田軍を迎え撃とうとしました。
しかし、今川家の重臣である朝比奈信置、葛山氏元、瀬名某らには、すでに信玄の調略の手が伸びており、武田軍に内応するよう働きかけがあったため、武田軍が接近すると、これに呼応して、彼らは瀬名氏の根拠地瀬名谷(静岡市)に軍勢を撤退させてしまい、今川軍はあっという間に瓦解してしまいました。こうして、武田軍は難なく、難所薩埵峠を突破しました。そのため、今川氏真もやむなく清見寺から駿府に撤退せざるをえませんでした。
こうして、武田軍は、 ほとんど今川方の抵抗を受けることなく、12月13日に駿府に達しました。駿府は、武田軍の突入により大混乱に陥り、町屋や寺社の多くが焼失し、今川館(やかた)も、あっけなく焼け落ちてしまいました。
いとも簡単に武田軍の駿府進入を許した今川氏真は抵抗をあきらめ、遠江国掛川城に向けて脱出を図ることとなります。
これ以降の今川氏真がどうなるかについては、「どうする家康」の次回タイトルが「氏真」となっているので、次回に描かれることと思います。どう描かれるのか楽しみにしています。

