徳川家康、遠江へ侵攻(「どうする家康」33)
武田信玄の駿河侵攻にあわせて、徳川家康も遠江に侵攻しました。
徳川家康は、当初、本坂峠を越える本坂道(のちの姫街道)を通って遠江に侵攻しようと思いましたが、三ケ日を支配していた浜名頼広は、家康に抵抗をしめしていて、本坂でも気賀の郷民に一揆をおこさせていたことから、本坂を通過するのが困難であったため、家康は危険な湖北地帯をさけ、奥山・井伊谷方面から進むことにしました。
奥山・井伊谷方面は、野田城の菅沼定盈(さだみつ)を通じて、井伊谷三人衆と呼ばれる都田の菅沼忠久・井伊谷の近藤康用・瀬戸の鈴木重時に働きかけをしてあり、井伊谷三人衆は家康に帰属することとなり、遠江の道案内を行いました。
家康は岡崎を出陣、牛久保をすぎ、八名(やな)郡中宇利(現新城市中宇利)に進み、ここで井伊谷三人衆の出迎えを受けました。その後、陣座峠をこえ、遠江引佐郡奥山をへて、13日に井伊谷(現浜松市北区引佐町)に到着しました。
そして、井伊谷城・刑部(おさかべ)城を攻略した後、井伊谷から金指をへて橋羽(はしわ)(浜松市東区天竜川町)の妙恩寺に入りました。
一方、酒井忠次は、本坂峠を経由する本坂路(のちの姫街道)を進み、白須賀城・宇津山城(うづやまじょう)を攻めおとし、家康の軍と合流しました。
家康侵攻の報を聞いて、浜名の後藤氏・頭陀寺の松下氏・匂坂氏(さぎさか)などは人質を出し家康に帰属することとなりました。また、二俣城も降伏したため、家康は、二俣城に在城していた鵜殿氏長(鵜殿氏照の子供)にそのまま二俣城を守らせました。
そうして、当面の目標である引馬城に近づきました。
引馬城は、「どうする家康」で描かれていたように城主飯尾連竜が家康とよしみを通じていたとして永禄8年12月に今川氏真に駿府で謀殺されていたため、老臣江馬安芸守泰顕・江間加賀守時成らが守っていました。江間泰顕は武田信玄に味方しようとして江間時成を殺したが、江間泰顕も江間時成の家臣に殺されるという引馬城内での内紛がありました。
この時、飯尾連竜の妻お田鶴の方が引馬城を守っていて、お田鶴の方は、家康の降伏要請も拒否し、侍女ともども奮戦し討死したと言われています。『徳川家康と武田信玄』(平山優著)には「伝承があるが、事実かどうかは確認できない」と書いてあります。「どうする家康」でのお田鶴の城門を出て侍女たちと奮戦する姿は史実かどうか不明ですが、そうした伝承は確かにあるようです。

