今川氏真、駿府を捨て掛川城に逃げこむ(「どうする家康」34)
今川氏真は、武田信玄の侵攻に対して、駿府から興津の清見寺に出陣したものの薩埵山に陣を構えた朝比奈信置・葛山氏元・瀬名氏などは信玄の両略により薩埵山から離れてしまい、氏真の本陣に庵原安房守をはじめ7.80人ばかりだけが残る状況だったようです。「どうする家康」では、陣触れに対して誰も応じなかったというふうに描かれていましたが、ほぼ同様なことが起きていました。そのため、氏真は武田軍と戦うこともできずに駿府の今川館へ退却せざるをえませんでした。さらに、武田軍は急速に駿府に進入してきたため、駿府も守り切れずに、12月13日未明に駿府の今川館を脱出し西へ退去しました。
その時の氏真の一行の脱出の様子は非常に惨めなもので、氏真の正妻早川殿は、この時、乗物にも乗ることができず徒歩で脱出したそうです。(「どうする家康」では氏真の妻糸が山中で一休みする様子が描かれていましたが、実際、あのような脱出行だったと思われます。
また、今川館脱出の際、「静岡県史」によれば今川家代々が大事に保管していた重要書類もほとんどが焼失し、「残った御一家御一名御書・等持院殿(足利尊氏)御教書二通を三浦正俊が預かり、鎧唐櫃に入れ背負って退却した」そうです。
どれだけ慌てて脱出したかがわかります。
氏真一行は、掛川に向かうにあたって、東海道を使用せず、駿府の北西部にある建穂寺(たきょうじ)から山間部に向ったと推測されています。「建穂寺学頭慶隆が今川氏と血縁関係にあり、修験者の保護もあったとも考えられる。」(「静岡県史」より)そうです。
『徳川家康と武田信玄』(平山優著)の氏真の脱出ルートを地図でみると静岡市の西部の山間部を通り、藤枝市・島田市の山間部を通って掛川城に入ったようです。
こうしたルートを通ったのは、「静岡県史」によれば「家臣の多くが離反したため敵味方の区別ができず、武田勢の急襲と遠江国に徳川家康が侵攻を開始したため、東海道を西に退去することが危険であったための行動ではないかと思われる。」そうです。
武田軍の追撃を警戒しつつ、徒歩での移動ですので、氏真はともかく正妻早川殿(「どうする家康」では糸」)にとっては大変つらい逃避行だったと思われます。
こうして入城した掛川城は、今川家の重臣である朝比奈泰朝が守護する城で、朝比奈泰朝は、他の家臣たちが氏真を見限りなかでも、今川家に対する忠義を貫き、掛川城を攻撃してくる徳川家康軍に対して頑強に抵抗しました。この続きは次回書きます。

