今川氏真、掛川城を開城(「どうする家康」35)
今川氏真が掛川城に入城したのが永禄11年12月15日でした。そして、掛川城を開城したのは永禄12年5月15日でした。この5か月間、氏真は徳川家康の攻撃に頑強に抵抗しました。
その攻防について詳しく書いてあるのが『静岡県史』・『徳川家康と武田信玄』(平山優著)でしたので、それらを参考に、その攻防戦について書いてみます。
氏真が12月15日に掛川城に入城すると遠江北部の堀江城の大沢基胤や犬居城の天野藤秀らは自分の籠る城を堅く守る旨と伝え送ってきました。また、小田原の北条氏康も援軍を海路にて掛川城に送ってきました。
これに対して家康は、21日、酒井忠次・石川数正等を掛川に向かわせ、28日には、家康自身も出陣し不入斗(いりやまず)に布陣し、掛川城周辺に付城を築きました。
そして、永禄12年(1569)1月16日、徳川家康は、本格的に総攻撃に取りかかりました。「静岡県史」によれば、家康方は青田山の付城に小笠原長忠(氏助)の高天神衆、二藤山に岡崎衆番手、かな丸山に久野宗能一党が入り、それぞれ守備を固めました。翌17日には、家康自身が本隊を率いて、掛川天王山に陣を張りました。
そして、1月21日から23日にかけての掛川城外で戦いが起きましたが、この戦いは両軍の総力戦の様相を呈した激戦でした。21日、徳川方は、久野宗能の通報により、掛川城兵の攻撃を事前に察知し、22日夜、大須賀康高・大久保忠世・松平忠次・本多康重・松平家忠らが今川勢を迎え撃ちました。そして23日の掛川天王山における戦いで、今川方に多数戦死者を出しました。しかし、戦況は膠着状態となり、掛川城が落城する気配はありませんでした。
3月4日、家康は再度掛川に出陣し、翌日、本多忠勝・松平伊忠が先陣を勤め、掛川城に攻撃を開始し、掛川城からは朝比奈泰朝・三浦監物らが応戦し、この戦いで今川方の兵100余人が戦死し、徳川方の戦死も60余人あったといいます。
また、今川方の堀江城の大沢基胤は掛川城と連携をとりながら頑強に抵抗し、浜名湖北部の堀川城には土豪たちが籠城し徳川方に抵抗していました。
4月になるとようやく堀川城を落城させられたものの、堀江城は孤立しつつも引き続き頑強に抵抗を続けました。
家康は、予想以上の今川勢の抵抗にあい、力攻めだけでなく氏真との和睦、堀江城などの懐柔もさぐるようになり、3月8日、掛川城に対して、使者を遣わし、和睦交渉を開始しています。「家康は、氏真に、自分が遠江国を取らなければ信玄が必ず取ること、掛川城さらに遠江国を渡すことを条件に和睦が成立したならば、伊豆国三島に在陣中の北条氏政へ使者を送って話し合い、徳川と北条氏とが二方から、駿河中の武田軍を追い払って、駿府を氏真に返すことなどを伝えた。」(「静岡県史」より)といいます。
そして、抵抗を続けた堀江城の大沢基胤は、掛川城の氏真の許可を得たのち、降伏する旨を徳川方に伝え、4月12日には、酒井忠次・石川数正が起請文を送り、堀江城への在城を認め、知行を安堵しました。これにより、
こうした和睦・懐柔工作が成功して、5月6日、氏真は、ついに五か月にわたり籠城を続けた掛川城を開城し、家康に城を明け渡すことになりました。そして、氏真は、5月15日に掛川城を開城しました。
こうした掛川城開城にいたる経緯から、「どうする家康」の家康が直接氏真と交渉する場面は、創作であることがおわかりになると思います。
そして、氏真は、早川殿の父北条氏康から派遣された迎えの兵に守られ海路で小田原に向け出発し、5月17日には早川殿とともに無事北条氏政が在城している蒲原に到着しています。そして、5月23日、氏真は、氏政の子国王丸(のちの北条氏直))を養子とし駿河国の実質的支配を氏政に譲りました。ここに駿遠の覇者今川氏は実質的に滅亡しました。