今川氏真の妻早川殿(「どうする家康」
今日は今川氏真の妻早川殿について書いていきます。なお、「どうする家康」では、「糸」と呼ばれていましたが、早川殿の名前については史料が残されていないので、確かに「糸」と呼ばれていたのかは不明のようですので、ここでは早川殿と表記します。
早川殿は北条氏康の娘です。早川殿が氏康と結婚したのは、甲相駿(こうそうすん)三国同盟を支える婚姻政策の一環です。甲相駿三国同盟は、天文23年(1554)に結ばれた甲斐武田信玄・相模北条氏康・駿河今川義元による軍事同盟です。
甲相駿三国同盟が結ばれ、武田信玄、北条氏康、今川義元は、それぞれの息子にそれぞれの娘を嫁がせ、その関係を強化することにしました。その結果、武田信玄の息子義信に今川義元の娘嶺松院が嫁ぎ、北条氏康の息子氏政に武田信玄の娘黄梅院が嫁ぎ、今川義元の息子氏真に北条氏康の娘早川殿が嫁ぐこととなりました。
早川殿が今川氏真に嫁いだのは天文23年(1553)のことです。早川殿が何年に生れたのかはっきりしませんので、何歳で嫁いだのかはっきりしませんが、早川殿が生まれたのは天文16年と推測されていて、それが生年であれば8歳で嫁いだことになります(黒田基樹著「北条氏康の妻瑞渓院」より)。 また、早川殿の母つまり北条氏康の妻瑞渓院は、今川氏親の娘で母は寿桂尼ですので、今川義元の実姉であり、氏真と早川殿は従兄妹です。早川殿は、母の実家の従兄に嫁入りしたということになります。
こうしたことを考えると「どうする家康」で、糸がなかなか嫁ぎ先がなかったかのようなセリフがあったように思いますが、そうしたことは創作だということになります。それに関連して足が不自由であったということも創作だろうと思います。
早川殿は、今川家に輿入れし、自らの祖母である寿桂尼が亡くなった後は、寿桂尼の立場を継承し、今川家の家政を取り仕切る立場になったと考えられています。
そうした早川殿も、武田信玄の駿河侵攻により、氏真が駿府を脱出する際には、輿も準備されず徒裸足で脱出したと言われていて、このことに父氏康は激怒したといいます。永禄12年(1569)正月2日付けの書状に「愚老息女(早川殿のこと)は乗り物を求め得ざる体(てい)、此の恥辱雪(そそ)ぎ難く候」と書いているそうです。
また、氏康は、武田家と今川家の間の雲行きが怪しくなった際に、その両者の仲介者となって同盟継続を認めさせましたが、信玄の駿河侵攻は、その氏康の仲介者としての立場も踏みにじることであったため、氏康の怒りは激しいものがありました。
そのため、氏康は信玄との同盟を破棄し、今川家を救援するため、北条氏政を総大将として大軍を駿河に派遣しました。北条軍は、薩埵峠に陣を構え、駿府に入った武田軍を背後から脅かしました。そのため、甲斐との通路を断たれた信玄は、永禄12年4月には、一部軍勢を残して、甲斐に撤退せざるをえなくなっています。
さらに前述の通り、氏政の妻は信玄の娘の黄梅院ですが、信玄の駿河侵攻に怒った氏康は、氏政に黄梅院を離縁させ甲府に送り還えさせたといいます。
掛川城に籠城した氏真は徳川家康の猛攻に頑強に抵抗し続けた結果、家康と和睦するということになり、永禄12年(1569)5月9日に和睦が成立し、5月15日掛川城が開城しました。そして、5月17日に氏真と早川殿は、蒲原城に入りました。
その後、閏5月3日には沼津に移りました。氏真はその後沼津の大平城に在城しましたが、早川殿は、翌元亀元年(1570)4月には、小田原に近い早川に住むようになりました。早川殿という呼び名は早川に住んだことによるものです。しばらくすると氏真も早川に移ってきて一緒に住むようになります。
その後、早川殿の父氏康が亡くなると、氏政は、武田信玄との同盟を復活させます。その際に、駿河は武田氏が領有することを北条氏が認めたため、氏真が念願した駿河領有の復活が叶わなくなりました。そのため、氏政の庇護を離れ、家康を頼ることとし、天正元年(1573)8月に浜松城に移りました。早川殿も、氏真とともに浜松に移っています。
なお、氏真と早川殿の間には子供が大勢います。駿府にいる間は娘が一人だけでしたが、早川で嫡男範以(のりもち)が生まれています。その後に高久以下3人の男の子がいます。範以は、38歳で亡くなりますが、その子の直房は高家として江戸幕府に仕えました。また、次男高久は品川氏を名乗り、同じく高家として幕府に仕えています。