信長、浅井長政と同盟する(「どうする家康」43)
織田信長と浅井長政が同盟を結び、お市が長政に輿入れしたことは、非常に有名です。しかし、それがいつなのかについて諸説があります。しかも、現在はこれが定説だという説もないようです。そこで今日は信長と長政が同盟した時期について書いてみます。
両者が同盟した時期については、永禄4年(1561)、永禄6年(1563)、永禄7年(1564)、永禄10年(1567)~永禄11年(1568)などの説があります。
永禄4年説は「川角(かわすみ)太閤記」に基づくもので永禄2年に婚約して4年に結婚したというものです。永禄6年説は高柳光寿氏が『青史瑞紅』で述べた説で、永禄7年説は江戸時代初期の『浅井三代記』によるものです。さらに永禄10年末から翌11年頃とする説は、奥野高広氏が「織田信長と浅井長政の握手」(『日本の歴史』)で唱えた説です。
織田信長は、永禄3年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取っています。永禄4年は信長と家康が和睦した年で、信長はまだ尾張統一にむけて犬山城の織田信清と抗争しつつ美濃の斎藤氏とも抗争していました。永禄6年には美濃攻略を展望して清州より小牧山城に居城を移しています。そして、永禄8年に犬山城の織田信清を破り尾張統一を果たし、いよいよ美濃攻略が本格化します。そして、信長が稲葉山城を攻略して斎藤龍興を追放したのは永禄10年8月のことです。
信長と長政の同盟がいつ結ばれたのかのポイントとなる時期は永禄10年の美濃併合の時期です。美濃併合以前には、織田信長と浅井長政の領地は接していませんので、美濃併合前に長政と同盟を結ぶことは、いわゆる「遠交近攻策」となります。しかも、信長の当面の目標は美濃併合ですので、美濃の斎藤氏挟撃のために、北近江の浅井長政と同盟を結んだということになります。
一方、美濃併合の後であれば、織田信長と浅井長政の領地は接することになり近国同盟となります。しかも、織田信長は足利義昭に供奉し上洛しようというのが当面の目標でした。この時期に同盟するのは、義昭の室町幕府再興を支援して上洛するという目標を達成するためということになります。
このように信長と長政の同盟の時期をいつとするかは信長の戦略のとらえ方に影響をおよぼすことになります。そうしたこともあって同盟の時期のとらえ方は研究者によって様々ですので、代表的な見解を紹介します。
『愛知県史』は、永禄11年に同盟を結んだと書いています。
小和田哲男氏は『浅井長政のすべて』のなかで、従来は永禄4年説が通説のようになっていたが、最近の研究では、永禄10年末から翌11年早々と考える説が有力になっていると書いています。また、同じ本の中の「お市との婚姻」の中で神田裕理氏は永禄11年4月としています。
一方、柴裕之氏は、「織田信長」の中で、永禄4年説を推したいところだが、史料がなく、現状では、どちらが正しいか判断しにくいと書いています。
また、谷口克広氏は、『信長の政略』の中で、奥野高廣氏の説・宮島敬一氏の説ともに難点があるので、「ここでは無理に結論を出さず、美濃攻略の中で信長は近江の浅井氏と同盟を結んだとしておきたい。」としています。なお、宮島敬一氏の説とは、人物叢書『浅井氏三代』の中で主張している永禄2年6月以降永禄6年以前とする説を指しています。
このように研究者の中でも、美濃併合の前とする説と併合の後とする説がいろいろな研究者によって主張されています。今後の研究の成果に注目していきたいと思います。
さて、お市ですが、通説では、天文16年(1547)に織田信秀の五女つまり信長の妹として生まれたとされています。
永禄4年(1561)に長政と結婚したとすれば数え年15歳で結婚したことになります。一方、永禄11年(1568)であれば22歳で結婚したということになります。22歳というのは当時の結婚年齢としては大幅に年をとっていますので、これが永禄11年説の難点だそうです。
ところで、家康が誕生したのは天文11年12月26日(1543年1月31日)ですので、家康の方がお市より5歳年上となります。「どうする家康」第4回で、織田家の人質となっていた家康とお市が水練や相撲で一緒に遊ぶ場面がありました。家康が織田家の人質となったのが天文16年8月~天文18年だと言われています。そうするとお市は大きくなったとしても満2歳です。大河ドラマでは家康とお市は同い年という設定のようですので一緒に遊ぶことも可能となりますが、史実としては家康とお市が一緒に遊ぶのはとても無理ということになります。

