信長、長政の裏切りを知る(「どうする家康」44)
織田信長は、永禄13年(1570)4月20日に京都を出陣し、徳川家康もこれに従っています。
この出陣は、上洛命令を拒否した越前の朝倉義景を討伐するためであったと言われています。確かに結果はそうなのですが、表面的な出陣の口実は若狭国守護武田氏の重臣であった武藤氏を征伐することでした。信長から毛利元就に宛てた書状に「若狭国の武藤を成敗する」と書いてあります。
信長の書状にこう書かれていることについて柴裕之氏は「織田信長」(平凡社刊)で、若狭国内で守護武田氏の没落による国内の紛争があったためであるとしています。
若狭国の守護は武田氏でしたが、この頃、守護武田氏の力が弱まり領国内が二分されていました。その一方の勢力が朝倉氏を頼っため、武田氏を支援していた朝倉氏は永禄11年(1568)若狭に侵攻し、幼い当主の武田元明を越前一乗谷に移し朝倉氏の庇護下に置きました。これにより若狭国守護としての武田氏は滅びました。守護がいなくなったため、若狭国は将軍が支配する国となり、朝倉氏と結ぶことに反対する勢力は、武田氏と親族関係にあった将軍足利義昭を頼りました。こうした情勢の中で、朝倉氏の支援を得ていた武田家の重臣武藤友益らは義昭に従わなかったため、義昭は、若狭国内の対立解消をめざして、義昭に従わない勢力を征伐するよう信長に命じました。こうして、信長は若狭に向けて出陣しました。そのため、出陣の表面的な目的は「武藤氏征伐」ということになりました。
しかし、この若狭侵攻に対して、朝倉氏が反撃することとなり、柴裕之氏は、「結果として越前攻めが勃発する事態に発展してしまったというのが実情である。」と書いています。
織田軍は23日若狭国佐柿(福井県美浜町)に到着したものの、信長は武藤友益が守る若狭国西部の大飯郡を攻撃することなく、翌日、越前に向かいました。そして、天筒山城を攻め、その日のうちに攻め落としました。続いて、手筒山城と尾根続きの金ヶ崎城を攻め、26日には、金ヶ崎城を守っていた朝倉一門の朝倉景恒は城を開き退去しました。さらに信長は近江との国境に近い疋田城も攻め落としました。
こうして敦賀郡を支配した信長は木ノ芽峠を越えて義景の本拠地に攻め入ろうとしましたが、その矢先に浅井長政裏切りの連絡が入りました。27日のことでした。
最初、長政裏切りの情報を信長はにわかには信じなかったようです。『信長公記』に「(信長は)虚説たるべきとおぼしめされ候」つまり「嘘だ!と思った」と書いてあります。
しかし、様々の方面から長政裏切の情報が入り、事実だと知った信長はただちに退却することを決断し京都に帰ることにしました。
北近江は長政の勢力下にあるため、そこを通過するのは危険でした。そこで、朽木谷を支配する朽木元綱は、長政に攻められ2年前に支配されたばかりであったため、朽木谷を通ることとしました。朽木元網は、信長の帰京を妨げることはせず、信長は、4月30日に無事京都に帰り着くことができました。
今回の「どうする家康」では、お市の方の侍女阿月(創作された登場人物)の登場場面が数多くありました。これは有名なお市の方が信長に長政の裏切りを小豆の袋で知らせたという逸話をベースにした話だと思いますが、この「小豆の袋」の話は、「朝倉家記(あさくらけき)」という本にだけ載っている逸話のようです。「朝倉家記」を読もうとしましたが、翻刻されたものがないので「小豆の袋」の話が載っているのかどうか残念ながら確認できませんでした。
なお、金ケ崎城は、秀吉と家康が、織田軍の殿軍を勤めた城として有名で、次回、この時の戦いが描かれると思いますが、南北朝時代には、南朝方の新田義貞が後醍醐天皇の皇子である尊良親王と恒良親王を奉じて、総大将高師泰が率いる足利幕府軍と戦った城としても知られています。この戦いで尊良親王は自害し、恒良親王は幕府方に捕らえられ毒殺され、新田義貞の長男新田義顕も自害しています。

